.『教会教義学 神の言葉2 神の啓示> 三位一体の神』八節 その啓示における神について

 

八節 その啓示における神についてバルトは次のような定式化を行っている

 神の言葉はその啓示における神ご自身である何故ならば神は主としてご自身を啓示されるのでありそのことは聖書によれば啓示の概念にとってこのこと――神はご自身破壊されない単一性においてしかしまた破壊されない差異性において啓示者啓示啓示されてあることOffenbarseinであり給うということ――を意味しているからである

 

この定式は次のように理解することができる

 「神の言葉はその啓示における神ご自身である」。すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている起源的な第一の形態の神の言葉」は、「その啓示における、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)「自己を覆い隠す」聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれは、ここにおいては、「神の不把握性の下にある」)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての神ご自身である(それ故に、「三神、三の対象、三つの神的我ではない」)。それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、ここにおいてはわれわれは「神の不把握性の下にある」ことからして、<イエスキリストにおける神の自己啓示>は、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位相互<内在性>」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――「啓示者」・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>におけるその第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」において、「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の認識と信仰を要求する啓示である。したがって、このイエス・キリストにおける神の自己啓示は、われわれに対して、区別を包括した単一性において、先ず以て「第二の問題」である「神の本質を問う問い」(「神の本質の問題」)を包括した「第一の問題である神の存在を問う問い」(「神の存在の問題」)を要求するのである。「何故ならば神は主としてご自身を啓示されるのでありそのことは〔第二の形態の神の言葉である〕聖書によれば啓示の概念にとって、〔「自己自身である神」としての「三位一体の神」としての〕神はご自身破壊されない単一性〔すなわち、「失われない単一性」〕においてしかしまた〔「われわれのための神」として〕破壊されない差異性〔すなわち、「失われない差異性」〕において、〔起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父に関わる〕啓示者、〔第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身に関わる〕啓示、〔第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊に関わる〕啓示されてあることであり給うということを意味しているからである」。詳しく言えば、神はご自身、また「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち起源的な第一の存在の仕方である父、第二の存在の仕方である子、第三の存在の仕方である聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>において、イエス・キリストの父――すなわち、啓示者・言葉の語り手・創造者であり、子としてのイエス・キリスト自身――すなわち、啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――すなわち、啓示されてあること・三位一体の唯一の啓示の類比としての神の第二の存在の仕方における神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3章、エフェソ211-22・救済者であり給うということを意味しているからである。そして、この「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「完全さ、自由さ」は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊の「完全さ、自由さなのである」。この「三位一体の神」については、「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」(その1)の「2.自己自身である神(ご自身の中での神)としての、それからまたわれわれのための神としての<三位一体の神>および「1.イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>および<まことのイスラエル、民、イエス・キリストの教会>」3.キリストにあっての<神の自由>について」「4.キリストにあっての<神の愛>について」5.<神の隠蔽>としての<身をかがめる>ということも参照されたし。

 

 一 教義学における三位一体論の位置」および「二 三位一体論の根」ならびに「三 三位一体ノ跡

第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)として神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として、祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」ということを前提とし、「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語る「教義学的な合理主義を明確に否定し」、キリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、啓示神学、「『<非>自然』な神学」の<段階>で思惟し語るバルトは、起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉(その「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」、預言者および使徒たちの「イエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)である「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(すなわち、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とする「神の讃美」としての「隣人愛」(すなわち、区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法の問題、神の命令・要求・要請の問題)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル。公同ノ教会」共同性を目指すところの「人間の理性を用いて合理的に」・論理的に「教義学的な定式化を行う」のである。「問題の定式化、問題を明確に提起することは、その問題の解決である」(カール・マルクス「ユダヤ人問題によせて」)。

 

さて、「〔第二の形態の神の言葉である〕聖書また〔その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である〕教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する」。したがって、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕イエス・キリストにおける神の自己「啓示が、〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である〕教会の宣教の<客観的な>信仰告白および教義〔Credo〕である三位一体論の根拠である。この三位一体論は神論の決定的に重要な構成要素であり啓示の認識原理であるしたがって教会の宣教の批判と訂正は常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである何故ならばこの三位一体論を啓示認識の原理にしない時にはすぐに〔ちょうど例えば、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」ところの、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍を尊重する、「人間学の後追い知識」を目指す、近代主義的プロテスタント主義的神学者たちにおけるように、また超例えば、八木誠一によって<学業的>知識の領域において恣意的独断的に神性を剥奪されたイエスは、「人間存在の根底を語り続けたただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」人に過ぎなくなってしまうように(八木誠一『イエス』)〕神性否定のキリスト論や半神半人キリスト論や三神論に埋没していく以外にないからである」。

 

 第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)である三位一体論の根拠である「神の啓示、旧約聖書におけるヤハウェ、新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身の自己啓示のことである」。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている神の側の真実としてのみあるイエスキリストにおける神の自己啓示は、「三位一体論の根根拠基礎である」。このイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を持っている(『教会教義学 神の言葉』)、その自己証明能力は客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とする客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」という自己証明能力の<総体的構造>を持っている(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)。なお、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とする客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」という自己証明能力の<総体的構造>については、「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>(その1)の「1.イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>および<まことのイスラエル、民、イエス・キリストの教会>」を参照されたし。

 

 バルトは、次のように述べている――「三位一体論こそキリスト教の神論をキリスト教の神論としてしたがって三位一体論こそ確かにキリスト教の啓示概念をキリスト教の啓示概念としてすべてのほかの神論および啓示概念から根本的に区別しぬきん出させるところのものである」。「自分を啓示する神はだれであるかという啓示の問題は……三位一体論の問題と共にたちもすれば、倒れもする」。第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である「教会の宣教における三位一体論の教義は、聖書の中にあからさまに表現されている教えではなく、むしろ教会的な教えである」。すなわち、「事実、〔第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である〕教会の宣教における三位一体論は聖書の注釈〔、解釈である」。したがって、「それは恣意的になされたその対象を聖書以外のところにもつような思弁ではない」。したがってまた、「それは、〔第三の形態の神の言葉である〕教会的な釈義ではあるが間接的には、〔第二の形態の神の言葉である〕聖書の啓示の証言の諸命題と同一であると理解されるべきものである」――ここにおいて、「神学の一つの学科である教義学は、キリスト教に特有な神についての語り(Rede)について、キリスト教会がなす、学問的な自己吟味として、教会の一つの機能である〔教会の一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)である〕」、「聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示の出来事の宣べ伝えを目指すことのない〔「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語る〕単なる〔学業的な〕知識としての形而上学的な教義学は、それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方のものであっても、その教義学は教義学としては非学問的である」(『教会教義学 神の言葉1 序説』)。

 

 「三位一体ノ跡」について、バルトは、次のように述べている――第二の形態の神の言葉である「聖書の啓示概念は、その分析を最も単純な分析へと徹底させてゆけば、父と子と聖霊として三重の神が一人の主であることが三位一体論の根、根拠、基礎である……」、換言すれば自己自身である神としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「自己を覆い隠す」聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれは、ここでは神の不把握性の下にある)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、三神、三の対象、三つの神的我ではない」)ご自身が一人の主であることが三位一体論の根拠基礎である……」。何故ならば、自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「根源」(起源)としての「父は、子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源であり、その区別された子は、父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交としての聖霊は、父と子が根源である」からである。それから、この神は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち起源的な第一の存在の仕方である父、第二の存在の仕方である子、第三の存在の仕方である聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)において、起源的な第一の存在の仕方であるイエスキリストの父――すなわち、啓示者・言葉の語り手・創造者であり、第二の存在の仕方である子としてのイエスキリスト自身――すなわち、啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者であり、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――すなわち、啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3章、エフェソ211-22)・救済者である。このような訳で、「この神は、子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する」が、この神の<内在的本質>からすれば、「父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であり、同様に、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある」。「このように、聖書の啓示概念そのものが三位一体論の根拠基礎である三位一体論はイエスはキリストあるいは主であるという認識の展開以外の何ものでもない」。われわれは、「神の啓示の中でとられた神の形態としてではなく、〔キリストにあっての神としての神とは全く異なる〕被造物的実在の中での類似体という意味で三位一体ノ跡という概念を使用している存在の類比の概念に依拠している〔「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語る〕アウグスティヌスに対して、批判的・論争的に、このように言うのである……」。

 

 ここで、われわれは、「三位一体ノ跡」について、「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語るアウグスティヌスの思惟と語り<と>「『<非>自然』な神学」<段階>で思惟し語るバルトの思惟と語りとを比較衡量してみることにする。

)アウグスティヌスは、「三位一体を〔第二の形態の神の言葉である〕聖書から導き出し、基礎づけるのではなく、三位一体を人間的自意識から、あるいは別の被造物的秩序から導き出して基礎づけることができると考えた。彼は、人間にとってはるかに身近な<内>世界的三位一体〔世界<内>的三位一体〕の方に向かい、ますます<内>世界的三位一体自体〔世界<内>的三位一体自体〕の中に神的三位一体を見出すと考えるようになった」、すなわち「彼は、神的三位一体を、世界から説明しようと欲した」、「彼は、神が自分自身を啓示する三位一体の中で、三位一体が被造物的形態をとる限りにおいてではあるが、三位一体ノ中デノ被造物ノ跡のことであると言うべきであったにもかかわらず、被造物ノ中デノ三位一体ノ跡と言った」。ここで、バルトが述べている「神が自分自身を啓示する三位一体の中で、三位一体が被造物的形態をとる限りにおける……<三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」とは、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の第二の存在の仕方における神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的なしるし>」、「神の業の>、<>、<特定ノ外形>」)であるイエスキリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3章、エフェソ211-22)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(「啓示との<間接的>同一性〔啓示との区別を包括した同一性〕」におけるその「最初の直接的な第一の啓示のしるし>」)である聖書(すなわち、預言者および使徒たちの「イエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)、この「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に連帯し連続し、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉(「啓示のしるし>」しるし>)である教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての教会の宣教の現存のことである、「われわれがわれわれの人間的な耳と概念で神の啓示を聞くときに聞くところのこと、われわれが聖書の中で聞きとる……ところのこと、神の言葉の宣教で(われわれの生の中で)事実あるところのことである。なお、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)については、「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>(その1)の「6.「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)について」を参照されたし。

)バルトは、アウグスティヌスの「存在するものそのもの、その純然たる造られた存在、その造ラレタモノヲトオシテ知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という「『自然』神学」の<段階>で停滞した思惟と語りに対して、根本的包括的な原理的な批判を加えている――「そのような三位一体の跡は世界に対して超越する創造神の跡として理解することはできない」。何故ならば、「そのような三位一体の跡」は、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を駆使して対象化され客体化された人間自身の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「人間自身の内在的に理解されたただ単なる宇宙の諸規定、人間的な現実存在の諸規定、単なる宇宙論や人間論、人間自身に基づく人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解、神話でしかない」からである。『カント』では、バルトは、次のように述べている――まさに「『自然』神学」の<段階>で停滞し「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカント〔の思惟と語り〕は、本源的であるがゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、〔「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語る〕アウグスティヌスの教説と一致する」。「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語る彼らは、「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼しない」のである。彼らとは違って、「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼する」バルトは、次のように述べている――「神学をただ啓示の中にのみ基礎づけるために、〔第二の形態の神の言葉である〕聖書に依拠した」教会の宣教およびその一つの補助的機能(「教会的な補助的奉仕)としての〔「『<非>自然』な神学」〕は、「罪深い曲がった人間の究極的な限界性を認識し自覚した人間の言語を前提として、三位一体を世界から説明しようと欲しないで逆に世界を三位一体から説明せんと欲する」。この「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語るアウグスティヌスと「『<非>自然』な神学」の段階で思惟し語るバルトとの根本的包括的な原理的な差異性は、()で述べたように、前者においては被造物的実在の中での類似体被造物ノ中デノ三位一体ノ跡というように語られ」、後者においては神の啓示の中でとられた神の形態三位一体ノ中デノ被造物ノ跡というように語られる」点にある。第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕)としての神学がそれぞれの時代、それぞれの世紀、その時代と現実に強いられたところでなされる限り、「啓示は例証されようとはせず、解釈されんことを欲するのであり、解釈するとは、〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、〕別の言葉で同一のことを言うことである」。したがって、「例証する者」とは、「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼しない」で、キリストにあっての神としての神の特別啓示から独立して、それ故に第二の形態の神言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準としないで、「人間にとって啓示よりもいつもはるかに身近な、最後的には人間自身に固有な存在と本質である」ところの、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を駆使して対象化され客体化された人間自身の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「人間自身の内在的に理解されたただ単なる宇宙の諸規定、人間的な現実存在の諸規定、単なる宇宙論や人間論、人間自身に基づく人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解、神話」でしかないことと「同一のことを〔それぞれの時代、それぞれの世紀において、それぞれの際限なき人間的欲求を持った人間自身が、それぞれの人間自身の自己主張、自己表現として〕別の言葉で言うことである」。確かに、「神学的言語におけるどんなに潔癖な教義学であっても、その中に例証の要素が見出されないような啓示の解釈は存在しない、というのが事実であるかもしれない」ことからして、われわれは、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(すなわち、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とする「神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法の問題、神の命令・要求・要請の問題)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性(Ⅰコリント3章、エフェソ211-22)を自覚的に目指して行かなければならないのである。バルトは、次のように述べている――起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「啓示との<間接的同一性>」において存在している第二の形態の神の言葉である聖書も、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉ではない、ましてや聖書を対象とする第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕)としての「釈義神学による聖書的教えの認識や概念」は、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉ではない。したがって、「教会教義学は使徒や預言者たちが語ったことを問うのではない」、何故ならば「もしも彼らの語りをそれとして問うことをしたならば、それは、彼らによって対象化され客体化された彼らの語り〔彼らの意味世界〕を問うことになってしまうからである」。したがって、第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての「教会教義学は、『使徒と預言者たちに基づいて』〔すなわち、「聖書への絶対的信頼」に基づいて、第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」<と>そのような「神への愛」を根拠とする「神の讃美」としての「隣人愛」という連関と循環において、〕何をわれわれ自身が語るべきかを問わなければならない」、「その時だけ、キリスト教的語りは今日何を語ることがゆるされ、語るべきかを問うよう自分が要請され・命じられていることを知るのである」、「教会教義学そのものまた神についての教会の語りは信仰のない人間の信仰にさからう理性を用いての語りであるが教会教義学そのものが神についての語りをはかる規準〔・原理・法廷・審判者・支配者・標準〕、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの「イエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)の中で証しされているところの、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての〕イエスキリストの中で受けとる限り教義学は真理の認識として可能となる。その時、教会教義学は、人間的な問いの中で、人間的な問いと共に、人間的な問いのもとで、……神的な答えについて語ることができる」。しかし「その思惟と語りが、キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のである。その是非についついての最後的な裁きは、終末(復活されたキリストの再臨、「完成」)を待たなければならない。したがって、現存する第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての教会教義学における思惟と語りは、「その思惟と語りが、キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」であるということを前提として、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度〔「祈りの態度」〕に対し神が応じて下さる〔「祈りの聞き届け」〕ということに基づいて成立しているのである」。したがってまた、われわれは、次のように言わなければならないのである――「人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて認識しうるもの、それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄であろう。このような絶対最高の存在・このような究極最深のもの・このような『物自体』は、神とは何の関りもない」(『カール・バルト著作集10』「教義学要綱」)。「三位一体論の根根拠基礎はただ〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕啓示の中にのみあり得うる人は二人の主に兼ね仕えることはできない」。したがって、先行するキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、神人協力もというように「二人の主に兼ね仕える」時には、「誤謬は必然である」。『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』に即して言えば、こうである。アウグスティヌスは、「三位一体の痕跡である想起(記憶)、知解、愛としての人間の中での神の像を、最も身近な最も高貴な認識根拠とした」。それは、アウグスティヌスにとって、「聖書的・教会的・教義的前提であった」。アンセルムスにとってもそうであったが、アンセルムスの場合は、アウグスティヌスとは違って、徹頭徹尾「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である「聖書に教えられつつ語る」のであって、生来的な自然的な「われわれの理性に内在している神概念の再想起において創造しつつ神について語ろうとはしなかった」。したがって、客観的な「存在的な<ラチオ性>」の中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>は、啓示、恵み、信仰を前提条件としていた〔すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件としていた。

 

 さて、バルトは、「三位一体論の<世俗化>であるアウグスティヌス的三位一体の跡の諸現象を例示している」。言い換えれば、全自然および自然の一部である自己身体を座とする人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠する一般的啓示、一般的真理、「存在の類比」、「『自然』神学」における諸現象を例示している。アウグスティヌスは、「『自然』神学」の<段階>において、「記憶、〔過去・現在・未来という時間性としての〕知解、認識、思惟による記憶の現在化、愛、一方を他方と関連づけそのようにして知覚の働きを遂行する能力、記憶、理解、意志」として内在する人間の「精神の三つの能力――すなわち、存在スルコト、知ルコト、意志スルコトニ、神ノ……三位一体ノ跡以上の似像を見出した」。「教義学的な合理主義を明確に否定し」、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、「『<非>自然』な神学」の道を目指していたアンセルムスも、「三位一体における父、子、聖霊を、自然の存在のナイルと呼ばれうる泉、川、海およびその相互関係と比較した」。ルターは、「すべての被造物の中に、聖なる三位一体の指し示しがあり、人はそのような指し示しを見るとして、先ず第一に本質は父なる神の全能を、次に形態と形式は子の知恵を、第三に有用さと力は聖霊のしるしを指し示しているとした。また、ルターは、純粋な言葉が……流れる泉父は、神的事物において言語学である、事物の秩序正しい配列の仕方を示す「子は、弁論術である、生きたもの、力あるものにする聖霊は、雄弁術、雄弁家であるとした」。「教会史においては、例えば、ペテロ的な過去の国、おそれの国……父の国、パウロ的、現在の国、真理の国……み子の国、ヨハネ的な、将来の国、愛の国……霊の国という三つの国論が繰り返し現れた」。モルトマンは、自由を原理とする西欧近代を人類史の頂点とするヘーゲルの歴史哲学に依拠して<直線的な>神学的な三段階的進歩史観を主張した。エーバーハルト・ユンゲルは、ヘーゲル哲学と西欧「近代の未完のプロジェクト」の完成を目指した社会学者のユンゲル・ハーバーマスに依拠して、神学的な「近代的な自由および自律の意識の加工処理」、「近代的自律の神学的加工処理」とう概念において西欧「近代の未完のプロジェクト」の完成を目指した。このように、われわれは、「シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも」、人間に内在する神的本質、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆、神の自由を認識しないというヘーゲルの哲学的手法」、「ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇する……」のである(『ヘーゲル』)。「全世紀を通してつよい印象を与え学派を造ったものはアウグスティヌス的な三位一体の論証の変形以外の何物でもないところの、〔「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語った〕彼の三位一体ノ跡についての理論であった」。

 

 イエスキリストにおける神の自己啓示は、「存在的にも認識的にもその実在および真理を……自分自身の中に持っている」。したがって、われわれは、その「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼しなければならない」、その自己証明能力の客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とする客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>という<総体的構造>に信頼しなければならない。しかし、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「教会の宣教においては、〔起源的な第一の形態の〕神の言葉は、〔第二の形態の神の言葉である〕預言者と使徒が啓示についてなす証言を通して、〔第三の形態の神の言葉である〕聖書の注解者と宣教者が啓示についてなす証言、注解者や宣教者や人間的な人格を通して、<間接的に>仲介されて存在している」。すなわち、「教会の宣教においては、神の言葉」は、「啓示ないし和解の実在そのもの」としての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身そのものではない。したがって、それは、神のその都度の自由な恵みの神的決断による、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、「常に繰り返しその都度神の言葉とならなければならない」。何故ならば、それは、神のその都度の自由な恵みの神的決断による、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、終末論的限界の下で贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を通して「実在であり、……真理である」からである。このように、「全く特定の領域で、ある特定の状況において、ある特定の人間」が、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて「神の言葉を聞き、認識し、信仰し、語る責任ある証人となる場合、その出来事、確証は、<単なる知識>ではなく、それに感謝をもって信頼し固執し固着する認識〔すなわち、信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事〕である。その時初めて、神の言葉は、われわれ人間に対して実在となり、またわれわれ人間も人間的にそれを実在として理解することができる」。

 

 「神は主〔すなわち、「神の主権、神のみ国、神の支配の告知」〕としてご自身を啓示される」――この第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける神の自己啓示は、「三位一体論の根根拠基礎である」。このことは、次のことを意味する――それぞれの時代、それぞれの世紀、その時代と現実に強いられて現存する第三の形態の神の言葉である教会の宣教における「三位一体論の本文は、〔第二の形態の神の言葉である〕聖書の本文にあるものをただおうむ返しに繰り返すだけでなく、聖書の本文の中に書かれているものに対して、〔恣意的独断的にではく、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、〕それの説明として新たなものを付け加え対置するということを意味する〔すなわち、それぞれの時代、その時代と現実に強いられたところで、「キリスト教に固有な」類を深化させ豊富化させて行くことを意味する〕」。「啓示概念における決定的な問い」――すなわち、「イエス・キリストにおいて自己啓示する神は誰かという問いに対する答えを探求する場合、三位一体論の中においてということが教義学的思惟の前提となる」。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神は主として自己啓示するという命題は三位一体論の根根拠基礎である」。第二の形態の神の言葉である「聖書的証言の本来的テーマは三位一体の第二の存在の仕方である子なる神キリストの神性を問う問いの中に父を問う問いと聖霊を問う問いとが包括されているという点にある。「聖書の啓示における主、主権は、自分を自分自身から区別し、自分と別のものとなると同時に、あくまでも自分と等しくあり続けるという神の自由を意味している」、換言すれば自己還帰する対自的であって対他的な完全な神の自由を意味している。「イエス・キリストにおける神の自己啓示は、ナザレのイエスという人間の歴史的形態、具体的姿、イエス・キリストの<名>」という神の第二の存在の仕方において、その内在的本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の認識(信仰)を要求する啓示である。「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方(すなわち、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、「啓示ないし和解に実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストは、「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」)である。「神の現臨とは常に、現臨せんとする神の決断である。神の賜物とは、神が与えることである。神の自己啓示……とは、最高絶対の神の自由な行為であり、あくまで神の自由な行為であり続ける。(中略)啓示は、つねにくり返し、言葉の完全な意味で、〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいた〕啓示である」。「ナザレのイエスという人間の歴史的形態具体的姿イエスキリストのの現実存在はキリストノ人間性のことである」。われわれは、「ここにおいてキリスト論の最も困難な問題の一つに出くわす」。何故ならば、木を見て森を見ないという仕方でその一面だけを形而上学的に抽象し固定化し全体化して(その一面だけを拡大鏡にかけて全体化して)、イエス・キリストの人間性への偏向による神性の剥奪化、減少化の問題、すなわち「イエス・キリストの俗化の問題が現れるからである」、ちょうど八木誠一が木を見て森を見ないという仕方でイエス・キリストの人間性へのみ偏向し、恣意的独断的にその神性を剥奪し「イエスは別段自分を超人間的存在として自覚していたわけではなく、『人の子』語句でもって人間存在の根底を語り続けたただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」と主張しているように(『イエス』)、ヘーゲルの言うところの「世界史的個人」にしてしまったように。この時、「イエス・キリストは、神秘主義の『いとうるわしき主イエス』、敬虔主義の『救世主』」、啓蒙主義における知恵の教師および人間の友なるイエス、シュライエルマッハーにおける高められた人間性の……総体であるイエス、ヘーゲルおよびその学派の者たちにおける宗教の理念の具現化としてのイエスへと変えられて行く」。それに対して、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準としたバルトは、「新約聖書においては、〔「われわれのための神」としてのその第二の存在の仕方における〕キリストノ人間性は、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての〕神の神聖性の留保のもとに立っている」と述べた。したがって、バルトは、「近代主義的プロテスタント主義的神学が、キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない時、その時には、〔人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠した〕視覚的錯覚によっているし、和解に関して言えば、赦す神が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が〔「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語る〕思弁でしかないものであるし、イエス・キリストは、下からの半神、超人、人間の最深の本質、最高の理想という空虚な概念でしかなくなってしまう」と根本的包括的に原理的に批判している。したがってまた、バルトは、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用する」バルトは、「〔「第二の問題」である「神の本質を問う問い」(「神の本質の問題」)に関わる〕キリストの神性は、〔区別を包括した単一性において、先ず以て「第二の問題」である「神の本質を問う問い」(「神の本質の問題」)を包括した「第一の問題」である「神の存在を問う問い」(「神の存在の問題」)に関わる〕啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識〔信仰〕することができる。すなわち、〔「われわれのための神」としてのその第二の存在の仕方における〕啓示と和解がキリストの神性の根拠ではなくて、〔「自己自身である神」としての「三位一体の神」の内在的本質であるその〕キリストの神性が啓示と和解を生じさせるのである」と述べている。言い換えれば、「赦す神」は、たとえその人が「真に罪なき従順なまことの人間」であっても人間に内在することはないのである。この第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「イエスキリストは、〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である〕教会の信仰告白および教義における一切の思惟洞察解釈省察の前提である」。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「イエス・キリストにおいて自己啓示された神は、隠レタ神〔「隠蔽」〕<と>顕ワサレタ神〔「顕現」〕として行為される神であって、われわれ人間によって〔われわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を駆使して〕遂行される弁証法において行為される神ではない」。すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による、客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエスキリストの啓示の出来事」(客観的な存在的な必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「垂直に天から落ちてきた出来事(聖霊降臨日)、垂直に天から注がれる〔「キリストの霊である」・「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」〕聖霊の注ぎ」による主観的な信仰の出来事」(主観的な認識的な必然性>」)に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事が事実生起しているとして確かめ得また承認しうるようになるそのことが、〔起源的な第一の形態の神の言葉である〕啓示の歴史性〔「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3章、エフェソ2・11-22)に連帯し連続した「キリスト教に固有な」<類>の時間累積、「キリスト教に固有な」<類>の時間性である」、換言すれば聖霊自身の業である「啓示されあること」、「歴史的な神の啓示されてあること」、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)、「聖礼典的な実在」、「キリスト教に固有な」類の歴史性(時間累積)である。このように、神の起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父の業に関わる「啓示者」(「神の聖〔神の隠蔽〕」、「聖金曜日」、「創造主なる神」)、神の第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身の業に関わる)「啓示」(「神のあわれみ」〔神の顕現〕、「復活日」、「和解主なる神」)、「聖霊は、神的愛に基づく父と子の交わりの中で、父は子の父・言葉の語り手であり、子は父の子・語り手の言葉であるところの行為〔・働き・業〕である」のであり、「ここに、神は愛、愛は神であることの根拠がある」のであり、「愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在である」のであり、愛は、自由と主権がそうであったように、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」のであり、この神の第三の存在の仕方である聖霊の業に関わる)啓示されてあること」(「愛〔神的愛に基づく父と子の交わり、すなわち隠蔽と顕現の交わり〕」、「聖霊降誕日」、「救済者なる神」)について、「聖書の証言の中では、神が第三の意味で主、聖霊であることが啓示の決定的な特徴である」なお、キリストにあっての神としての神の自由、神の愛については、「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>(その1)の「3.キリストにあっての<神の自由>について」および「4.キリストにあっての<神の愛>について」を参照されたし。

(文責:豊田忠義)