.『教会教義学 神の言葉2 神の啓示> 三位一体の神 九節 神の三位一体性について

 

九節 神の三位一体性についてバルトは次のような定式化を行っている

聖書に従ってご自分を啓示する神はその相互の関連から成り立っている三つの本来的な存在の仕方聖霊の中でひとりの方であり給うそのようにして彼は主であるすなわち人間的なわれわれに相対して出会い給いご自身を解消することができない主体として結びつけまさにそのようにそのことの中で彼の神として啓示されるようになるところの汝である

 

この定式は次のように理解することができる

聖書に従ってご自分を啓示する神換言すれば三位一体の唯一の啓示の類比としての神の第二の存在の仕方における神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」、「神の業の<衣>、<殻>、<特定ノ外形>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3章、エフェソ211-22)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(その「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>)である聖書の中で証しされているご自分を啓示する神(すなわち、イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」の中で証しされている「ご自分を啓示する神」は)、「その相互の関連から成り立っている」。「三つの本来的な存在の仕方聖霊の中で」、すなわち「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――すなわち、啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――すなわち、啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――すなわち、啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>の中で、「ひとりの方であり給う」――すなわち、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」であり給う、換言すればこの「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」は、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質としていることからして、「父は、子として自分を自分から区別するし、自己啓示する神として自分自身が<根源>〔起源〕であり、その区別された子は、父が根源〔起源〕であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は父と子が根源〔起源〕であり給う」、それ故に「この神は、子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する」のであるが、「父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であり、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主であり給う」。「そのようにして彼は主である」。「すなわち、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>において、〕人間的なわれわれに相対して出会い給いご自身を解消することができない主体として結びつけ〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」として結びつけ〕、まさにそのようにそのことの中で彼の神として〔すなわち、「われわれのための神」として〕啓示されるようになるところの汝である」。なお、Jimdofreeのホームページ「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」(その1)の「2.自己自身である神(ご自身の中での神)としての、それからまたわれわれのための神としての<三位一体の神>」および「6.「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)について」を参照されたし。

 

一 三位における一体」、「二 一体における三位」、「三 三位一体」、「四 三位一体論の意義

一 三位における一体

 第二の形態の神の言葉である「聖書、また」その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である「教会の宣教〔説教と聖礼典〕において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり〔すなわち、「父ト子ヨリ出ズル御霊」、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊であり〕、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の〕この啓示が教会の宣教〔説教と聖礼典〕における<客観的な>信仰告白および教義〔Credo〕である三位一体論の根拠〔根、基礎〕である」。この第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義〔Credo〕である「三位における一体一体における三位すなわち三位一体性についての教え〔「三位一体論」〕」、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づく聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性における「信仰の決断としてのみ意味を持ちうる決断である」、それ故に「われわれは究極的にはただ〔第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>〕教義自身に、……教義に向かいあって立っている〔教会の宣教およびその一つの補助的機能(「教会的な補助的奉仕」)としての神学の思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準としての第二の形態の神の言葉である〕聖書に次の問を持って訴えることができるだけである決断である」。したがって、第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義〔Credo〕である「三位における一体一体における三位すなわち三位一体性についての教え〔「三位一体論」〕」、「依然としてそして当分は安んじて正しいとしてばかりでなくまた重要であるとみなされるべき釈義としての教会の客観的な信仰告白および教義である」。この「三位一体論は神論の決定的に重要な構成要素であり啓示の認識原理である」。したがって、「教会の宣教の批判と訂正は常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである」。したがってまた、この「決断は単に偶然的で個人的な決断を意味しない」、すなわち「決断は今日に至るまでただ単にローマ教会と東方正教会の決断であったばかりでなく根本的にはすべての偉大な福音主義教会の決断であった」。第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義〔Credo〕である「三位における一体一体における三位すなわち三位一体性についての教え〔「三位一体論」〕」、「〔第三の形態の神の言葉である〕教会の宣教が〔第二の形態の神の言葉である〕聖書と結びついていることから……発生した」。すなわち、それは、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「聖書が教会に宣教を義務づけていることから発生した根本的な問い」、換言すればそれぞれの時代、その時代と現実に強いられたところで現存する第三の形態の神の言葉である「教会の説教にとってもまた教会の神学にとっても第一級の生死にかかわる問いに対して教会は三位一体論で答えたその答えとしてのそれである」。「啓示する方は誰であるか啓示の主体は誰であるかの問いに対して、〔それぞれの時代、その時代と現実に強いられたところで現存する第三の形態の神の言葉である〕教会の三位一体論は、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神は自己を啓示する方であると答える」。この「教会的な三位一体論、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける「啓示の中で自分自身をわれわれのものとならしめたものがまことに神であると答える」。また、「誰が神であるかの問いに対してはわれわれの神が神である〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における「われわれのための神」としての神が神である〕、と答える」。

 

 さて、「われわれに出会う神の存在語り行動「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)としてある、「神の自己隠蔽〔隠蔽・聖性、父〕、神の自己顕現〔顕現・あわれみ、子〕、神の自己伝達〔伝達、聖霊〕」全体としてある。「神の特徴的な性質はあわれみ愛であり神の特徴的な表示は新約聖書において聖金曜日復活日聖霊降臨日創造主和解主救済主でありそれに応じて神の名前は父聖霊である」。したがって、「子としてそして霊として……自己を啓示する方は、汝であり続ける(中略)主であり続ける」。このような訳で、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会は、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」を揚棄し後景へ退けてしまう「上から下りてきた半神論、また下から上がった半神論、また神性否定のキリスト論を展開したアリウスとすべての従属説を拒絶する」、それからまた「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)を揚棄し後景へ退けてしまう「サベリウスとすべての様態論を拒絶する」。このような第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である「教会の〔<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての〕三位一体論においてこそ、……キリスト教的一神論が問題であったし今も問題である」。教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての「三位一体論はこの〔父、子、聖霊という神の〕名を説明する確認以外の何物でもない」。「父に向かって祈るところの者、子を信じる者、聖霊によってうながされる者、その者に対して、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕ひとりの主が〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)において、〕出会い、その者とひとりの主がご自身を〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による「〔客観的な〕啓示の出来事と〔その啓示の出来事の中での主観的側面としての主観的な〕信仰の出来事」に基づいて〕結びつけ給う」。したがって、「三位一体的な洗礼の定式は、もしそれを三つの神的名あるいは三つの対象を持つ信仰、三神においてなされる洗礼の定式として理解するなら、これ以上ないほど全くひどく誤解したことになる」。何故ならば、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神は、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれは、ここにおいては神の不把握性の下にある)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神、三の対象、三つの神的我ではない」)の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――すなわち、啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――すなわち、啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――すなわち、啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>の中で、「ひとりの方であり給う」からである。聖書におけるキリストにあっての神としての「神が主であることは神の本質神性神的本質を意味しておりそれ故にこの時主なる神、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「神的存在であるということを意味している」。この一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神の内在的本質である失われない単一性」・神性永遠性は、「『ペルソナが三つであることの中においてのみ成立している〔換言すれば、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)の中においてのみ成立している〕」それである。すなわち、「神は三度の繰り返しの中でひとりの神であるということ、しかもこの繰り返しそのものは神の神性に基礎づけられている」。したがって、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける神の自己啓示は、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質を問う問い」(「神の本質の問題」)を包括した「第一の問題」である「神の存在を問う問い」(「神の存在の問題」)を要求する。バルトが、『神の人間性』において、「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べたうえで、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」と述べた時、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第二の存在の仕方であるイエス・キリストは、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」「まことの神」(「神の顕現」)にして「まことの人間」(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」)であり給うということを意味しているし、また外在的本質としてのその第二の存在の仕方における「啓示ないし和解がキリストの神性の根拠ではなく、〔その内在的本質としての〕キリストの神性が啓示と和解を生じさせるということを意味している」。ここで「<失われない単一性>は、三つの『ペルソナ』の本質の単なる種類の単一性、あるいは単なる集合の単一性ではなく、数的な単一性の真理のことである」、換言すれば「神の本質の単一性と区別〔区別を包括した単一性〕」における神の単一性のことである。この「神のただひとつの本質に、……われわれが今日、神の『人格性』〔「神の存在の仕方」〕と名づけるところのものも属している」。この「人格性の概念は、〔それぞれの時代、その時代と現実に強いられたところで現存する第三の形態の神の言葉である教会における〕近代の自然主義および汎神論に対する戦いのひとつの産物である」。すなわち、第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての「三位一体論における神の人格性の教え〔「神の存在の仕方」の教え〕そこでは三つの神的我について語られているのではなく、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方において〕三度〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕ひとりの神的我について語られているのである」。

 

 さて、「三位一体論はどの形においてもそれが啓示の否定でない限りは啓示のより粗野なあるいはより洗練された偶像化をもたらすものである」。「アリウスと彼に属する者たちが、キリストの中に、ひとりの神の第一の、最高の、そして最も栄光ある被造物を見、崇拝しようと欲した時、それは、神の単一性に対して侮辱を加えることになったのである〔すなわち、「神の本質の単一性と区別〔区別を包括した単一性〕」における神の単一性に対して侮辱を加えることになったのである〕」。バルトによれば、「オリゲネスにおける従属的キリスト論も、養子論的モナルキア主義(独裁神論)者たちも、様態論的モナルキア主義(独裁神論)者たちも、近代における〔近代主義的プロテスタント主義的神学者の〕シュライエルマッハーと彼に属する者たちも、失われない単一性に反対する立場であり、そして近代のサベリウス主義は、偶像崇拝へと向かう立場である」。神の本質の単一性と区別あるいは神の本質の区別を包括した単一性において、「啓示者である父なる神の子としての啓示神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊の業である啓示されてあること啓示者である父と等しくなければならない」。

 

二 一体における三位

 第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「啓示された神の啓示された単一性〔「失われない単一性」〕の概念は、神の本質の中での差異、区別〔「失われない差異性」〕あるいは秩序を排除せずに、むしろ含み入れている神の中における三つの『存在の仕方』、区別〔「失われに差異性」〕あるいは秩序である」。このことが、「神の本質の単一性〔「失われない単一性」〕<と>区別〔「失われない差異性」〕、換言すれば神の本質の区別(「失われに差異性」)を包括した単一性(「失われない単一性」)である。この「失われない差異性における父聖霊として区別されあるいは秩序づけられたPerson(位格)、存在の仕方に通底している共通の概念共通の原理は何か?」。バルトは、「近代的な人格性の概念が新しい混乱以外の何事も惹き起こさなかった」ことに対して自覚的であったから、「失われない差異性」の中での「三度別様の三つを、他との関係なしにそれ自身で存在している近代的な個体概念と区別させるために、人格の名で呼ぶことを避けて、存在の仕方と呼んだ」(E・ブッシュ『バルト神学入門』)。また、バルトは、『バルトとの対話』で、「個々人と共同体の対立は近代的な対立であって、新約聖書のものではない。……新約聖書の『体』の概念はこの対立を超えたものだ」と述べている。すなわち、イエス・キリストにおいては、個と共同性は逆立し対立するのではなく、正立し平和なのである。ここに述べられている位格の概念〔存在の仕方の概念〕異端のサベリウス主義との戦いに由来している。したがって、位格の概念〔存在の仕方の概念〕は、父、子、霊それぞれの、自分自身の中にあることとそれ自体であることを指し示すべきものであった」。すなわち、その「位格の概念〔存在の仕方の概念〕」は、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の根源(起源)としての「父は、子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源であり、その区別された子は、父が根源〔起源〕であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての「聖霊は、父と子が根源である」ところの「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)であるということを指し示すべきものであった。

 

 このような訳で、例えば「創造された世界における神の愛とわれわれの世界におけるイエス・キリストの事実の中における神の愛との間には差異がある」。すなわち、「後者の神の愛は、まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛である」。したがって、「和解ないし啓示は、創造の継続や創造の完成ではない。この意味は、和解ないし啓示は、〔「われわれのための神」のとしてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第二の存在の仕方である〕イエス・キリストの新しい神の業であるということである」。それは、「神的な愛の力、和解の力である」。「イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、〔その第二の存在の仕方において〕第二の神的行為〔すなわち、子なる神の存在としての神の自由の愛の行為の出来事〕を遂行したのである。この「存在の仕方の失われない差異性における創造と和解の順序に、キリスト論的に、父と子の順序、父〔啓示者・言葉の語り手・創造者〕と子〔啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解主〕の順序が対応しており、和解主としてのイエス・キリストは、創造主としての父に先行することはできないのである」。しかし、父と子は共に、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質としている「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」であることからして、「この従属的な関係」は、「われわれのための神」としてのその「外に向かっての」外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における父に関わる起源的な第一の存在の仕方<と>子に関わる第二の存在の仕方の区別・差異を意味しているのである。したがって、「神性否定のキリスト論」も、「下からの半神論」も、「超人論」も、「人間の『最深の本質』、『最高の理想』論」も、「三神論」も、「三つの対象論」も、「三つの神的我論」もあり得ないことなのである。バルトは、次のように述べている――神の本質の単一性と区別あるいは神の本質の区別を包括した単一性における「神の一つであること〔「失われない単一性」〕の中での三つであること〔「失われない差異性」〕の原理の、本来的に内容豊かな規定を、アウグスティヌスもトマスも、われわれプロテスタントの父祖たちもPerson概念の分析から得てきたのではない。(中略)それであるから、〔バルトは、〕……Personについて語らず、むしろ『存在の仕方』という概念の方を選ぶ。(中略)『神は、父、子、聖霊なる、三つの存在の仕方の中でひとりの方である』という命題は、(中略)ひとりの神、ひとりの主、ひとりの人格的な神は、ただ単にひとつの仕方の中でだけ、現にあるところの方であるのではなく、……父の〔起源的な第一の存在の〕仕方の中で、子の〔第二の存在の〕仕方の中で、聖霊の〔第三の存在の〕仕方の中で、現にあるところの方である」、と。「神は、三つの存在の仕方の中ででも〔すなわち、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)の中ででも〕、自分自身で、そしてまた世界と人間に相対しても、ひとりの神である〔すなわち、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」である〕」。しかし「自己自身である神」としての「三位一体の神」であるこの「ひとりの神は、〔「われわれのための神」としてのその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方において〕三度別様に神である〔すなわち、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における神である〕」。

 

 さて、そのように「三つの神的存在の仕方が相違しているという事実は〔すなわち、三つの神的存在の仕方の差異性の事実は〕、それら三つの存在の仕方に固有の(中略)発生的な、起源的な相互関係からして理解されるべきである」。すなわち、その事実は、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の根源(起源)としての「父は、子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源であり、その区別された子は、父が根源〔起源〕であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての「聖霊は、父と子が根源である」ということから理解されるべきである。「ただ、神の覆いかくすこと〔隠蔽、「啓示者」〕が存在する故に、神の覆いをとること〔顕現、「啓示」〕が存在し得る」。「そしてただ〔父に関わる聖性〕神の覆いかくすこと<と>〔子に関わるあわれみ〕覆いを取ること〔「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)イエス・キリスト〕が存在するが故に、その結果、〔神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊に関わる〕神の自己伝達〔「啓示されてあること」〕が存在し得る」。「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「神が神であるところの本質の中に、その行為の中に、まず純粋な起源があり、それから二つの異なった結果が起こる。そしてそれらの二つの結果のうち、第一の結果はただ起源からだけ〔「啓示の実在」そのものである子としてのイエス・キリスト自身は、「子として自分を自分から区別した父が根源〔起源〕である」ことからしてだけ〕、第二の結果は同時に起源と第一の結果から由来している」〔「啓示されてあること」である聖霊は、神的愛に基づく父と子の交わりとして、「父と子が根源である」ことから由来している〕ということの中に、神が一つであることの中でのこの三つであることは成り立っている」。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神は自分自身を父として……純粋な与え手〔「啓示者」・言葉の語り手〕として所有する子として……受領者であると同時に与え手〔「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)〕として所有する霊として……純粋な受領者〔「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)〕として所有する」。したがって、第三の形態の神の言葉に関わる「われわれはただ〔第二の形態の神の言葉である〕聖書に証言された〔起源的な第一の形態の神の言葉である〕啓示を〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として〕解釈しつつそしてこの対象を念頭に置きつつ、……そのことを主張することができるだけである」。

 

 「人は神の中での父霊は何であるかを語ったあとで続けてこう言わねばならない実は何も語りはしなかった」。何故ならば、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」は、自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在しており、われわれ人間は、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、神の不把握性の下にあるからである。「三位一体の秘義は常に秘義であり続けるように、……配慮されている」。したがって、キリスト復活から復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの聖霊の時代、中間時におけるそれぞれの時代、その時代と現実に強いられたところで現存する第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の第二の存在の仕方における神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」、「神の業の<衣>、<殻>、<特定ノ外形>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3章、エフェソ211-22)に連帯し連続し、その秩序性におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(その「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(すなわち、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(すなわち、区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行くところに想定できる、キリストにあっての神としての神の「秘義と取り組んでの理性的な努力のことである」――「私の思想はいかなる場合にも一つの点において常に同じであるということである。いわゆる『宗教』が私の思惟の対象・根源・規準ではなく、むしろ、……〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕神の言葉こそ私の思惟の対象であるという点では少しも変わってはいない。キリスト教会、その神学、その説教、その伝道を基礎づけ、維持し、支えてきた〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕神の言葉、聖書において人間に……あらゆる時代、あらゆる国、生のあらゆる段階と状況の人間に語りかける……〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕神の言葉、神との関係における人間の秘義……ではなくて、人間との関係における神の秘義である〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕神の言葉……それこそが常に私の思惟の対象なのである」(『バルト自伝』)。バルトは、「言葉ガ事柄ニ服シテイル……という原則、命題」に基づいて概念構成を行っている。このバルトは、次のように述べている――第三の形態の神の言葉である教会に属する全く人間的なわれわれは、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」(「イエス・キリスト信ずる信仰」)による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「成就と執行、永遠的実在としてある」成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な「救済」そのもの、それ故に「平和に関するバルトの書簡」によればその包括的な救済概念と同一である「平和」そのもの、「神ご自身によって確立された和解、神と人間……また人間とその隣人との平和」そのもの)において、<信>と<不信>(外在的な不信および信仰の側にも内在する内在的不信)を架橋されたところのイエス・キリスト自身、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身――この一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派〔学派、教派、非キリスト教、思想傾向、時流、「同時代の人たち〔「教養人」、大学社会の学者、知識人〕の思考の前提」や「そこから形成された理解の規準」、類的機能を持つ生来的自然的な自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」としてのさまざまな主義や主張〕に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」、と。

 

三 三位一体

 「三位一体論は、〔神の本質の単一性と区別、神の本質の区別を包括した単一性における、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神が三つであることの中での一つであることという定式神が一つであることの中での三つであることという定式との総括である」。したがって、「神が三つであることの中での一つとは、ひとつとなることを内包した単一性のことである。すなわち、父、子、聖霊が自分自身の間で一致しつつ一つであることを意味する」。「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「三位一体の神」は、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とするということ――それは、「一ツノ実体、一ツノ状態、一ツノ力デアルということである」。第二の形態の神の言葉である「聖書の証言に従えば、〔起源的な第一の形態の神の言葉である〕啓示の中で〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」――この〕ひとりの神がただ〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な〕三つの〔存在の仕方の〕中においてのみ三つがただひとりの神としてのみ認識できるのであるが、(中略)〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な〕三つのうちのどの一つも〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」であることからして、〕他の二つとともにある」。「〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」として〕父、子、霊が自分自身の間で一つであることに、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方において〕父、子、霊が外に向かって一つであることが対応する」。「神の本質と働きは二様のもではなく、ひとつである。この〔「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕神の自由さの中に神の不把握性は基づいているこの自由さの中に啓示された神のすべての知識の不十分さは基づいている」。「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「神の完全さ・自由さ」は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)の「完全さ・自由さ」である。キリストにあっての神としての神の自由については、Jimdofreeのホームページ「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」(その1)の「3.キリストにあっての<神の自由>について」を参照されたし。

 

四 三位一体論の意義

 「三位一体論は旧新約聖書の本文には出てこないまた旧新約聖書の歴史的な状況から発生したものでもない」。キリストにあっての神としての「神の啓示について、〔第二の形態の神の言葉である〕聖書の証言はわれわれを一つの命題神は主としてご自分を啓示するを三度違った意味で解釈する可能性の前に置くこの可能性こそ三位一体論の聖書的根根拠基礎である」。したがって、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)としての「三位一体論は、この根、根拠、基礎に基づいた神学的言語を用いての旧新約聖書本文の注釈において構成されたものである」。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の啓示は、旧約聖書におけるヤハウェ・新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身の自己啓示のことである。第二の形態の神の言葉である聖書またその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の宣教において「神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、神的愛に基づく父と子の交わりとしての父と子の霊である(「父ト子ヨリ出ズル御霊」である)聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する」。したがって、この啓示が、第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)である三位一体論の根、根拠、基礎である。この「三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、啓示の認識原理である」。したがって、「教会の宣教の批判と訂正は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。何故ならば、この三位一体論を啓示認識の原理にしない時には、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論やに埋没していく以外にないからである」、包括的に言えば「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語る神論、キリスト論、聖霊論に埋没していく以外にないからである。近代以降に例をとれば、その典型の一つが、「聖霊論を人間学の如く論じた」ところの、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆、神の自由を認識していないという事態にあるヘーゲル哲学の強力な痕跡を持つ」(『ヘーゲル』)「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語る近代主義的プロテスタント主義的神学者のシュラエルマッハーである。このシュライエルマッハーについては、Jimdofreeのホームページ「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」(その1)の「8.「『自然』神学」に対するカール・バルトの「『<非>自然』な神学」について(その3)」および「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」(その2)の「5.バルト最後の言葉――第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「ただイエス・キリストの<名>だけ」」の「1968年」のところを参照されたし。

(文責:豊田忠義)