.『教会教義学 神の言葉2 神の啓示> 三位一体の神 十節 父なる神について

 

十節 父なる神についてバルトは次のような定式化を行っている

 一人の神は聖書によれば創造主としてすなわちわれわれの存在の主としてご自身を啓示し給う彼はそのような方としてわれわれの父なる神である何故ならば彼は子なる神の父として先ずご自身の中でそのような方であるからである

 

この定式は次のように理解することができる

第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義〔Credo〕である「三位一体の根本命題に即して理解すれば第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているところの、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、ここにおいて、われわれは神の不把握性の下にある)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」は、すなわちキリストにあっての神としての「一人の神、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の起源的な第一の存在の仕方において、イエス・キリストの父(啓示者・言葉の語り手・創造者)として、「創造主としてすなわちわれわれの存在の主としてご自身を啓示し給う彼はそのような方としてわれわれの父なる神である」。言い換えれば、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父は、子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として、自分自身が根源〔起源〕である。したがって、その区別された子は、父が根源〔起源〕であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は父と子が根源〔起源〕である。この神は、子の中で、創造主として、われわれの父として、自己啓示する」。したがって、その内在的本質からして、「父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。同様に、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある」。したがってまた、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「自己自身である神」としての「三位一体の神の完全さ、自由さ」は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「父、子、聖霊の三つの存在の仕方の完全さ、自由さである」。イエス・キリストが父として啓示する神は、「われわれの生を、死を通して永遠の生命に導くために死を欲し給う神である。したがって、われわれ人間を永遠の生命に導くために、ゴルゴダにおいて、〔客観的なその「死〔裁き、律法〕と復活〔恵み、福音〕の出来事」における〕イエス・キリストにあって、イエス・キリストと共に、われわれすべてのものの生命が十字架につけられたのである」。このような訳で、「創造された世界における神の愛とわれわれの世界におけるイエス・キリストの事実の中における神の愛との間には差異がある。すなわち、後者の神の愛は、まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛である。すなわち、和解ないし啓示は、創造の継続や創造の完成ではない。この意味は、和解ないし啓示は、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における〕第二の存在の仕方であるイエス・キリストの新しい神の業〔性質・働き・行為・行動、外在的本質、すなわち子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕であるということである。それは、神的な愛の力、和解の力である。イエス・キリストは、和解主として、創造主の後に続いて、〔その第二の存在の仕方において〕第二の神的行為を遂行したのである。この〔「失われない差異性」の中での起源的な第一の存在の仕方と第二の存在の仕方における〕創造と和解の順序に、キリスト論的に、父と子の順序、父〔「啓示者」・言葉の語り手・創造者〕と子〔「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者〕の順序が対応しており、和解主としてのイエス・キリストは、創造主としての父に先行することはできない。しかし、この従属的な関係は、〔キリストにあっての神としての神は、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」であることからして、その内在的本質における差異性を意味しているのではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での〕その存在の仕方における差異性を意味しているだけである」。

 

そのような訳で、バルトは、『福音と律法』で次のように述べている――第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕彼の死を欲し給うのである……しかし〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうかわれわれのうち誰一人としてそのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会うしかるに、この救いの答えを〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕われわれに代わって答え・それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ〕人間の自主性〔・自己主張・自己義認の欲求〕と無神性〔・不信仰・真実の罪〕を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、〔「自己自身である神」としての「三位相互内在」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての〕神の永遠の御言葉が〔その内在的本質である「神性の受肉」ではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な第二の存在の仕方における「言葉の受肉」において〕肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて〔復活に包括された死において〕死に給うことによって引き受けたということ――これが恩寵本来の業であるこれこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。〔われわれ人間のために、われわれ人間に代って〕彼は全く端的に、信じ給うたのであるローマ三二二ガラテヤ二一六等のイエスキリストの信仰明らかに〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある〕主格的属格〔「イエス・キリスト信ずる信仰」〕として理解されるべきものである)」(このことが、福音と律法の<真理性>における福音の内容である)。したがって、このことは、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さずとも、〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、〕神であることを廃めずに、何ら価値や力や資格もない罪によって暗くなり・破れた姿のわれわれ人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬように、しかも〔「『自然』神学」の<立場>における思惟と語りにおいて〕混淆〔・共働・協働、神人協力〕されぬように、統一し給うたということを内容としている」。このような訳で、「イエス・キリストにおいては、神と人間が、しかしまた人間とその隣人が平和的なのであり、敵としてではなく、忠実な同伴者、仲間として、共にあるのである」。「この世と神との和解、人間相互間の和解を直接その内に包含している和解」、「神ご自身によって、イエス・キリストの歴史において、その生涯と死において、すでに完成され、死人からの復活においてすでに啓示されている和解」、それ故に「われわれ人間によって、はじめて完成されなければならないような和解ではなく」、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、それ故に「成就と執行、永遠的実在としてある」、「神ご自身によって確立された和解そのものであり」、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済そのものと同一である平和そのものである「イエス・キリストにおいて平和は、神ご自身が世界史〔人間の類の時間性、人類史、歴史〕のまっただ中に創造し見えるものとして下さった現実性である。この贈り物はただ、〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、〕われわれがこれを受けとることを待っている」。したがって、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間が、「この事実に向かって、眼と耳を閉ざして生きているということが、悲惨なのである」(寺園喜基『バルト神学の射程』「平和に関するバルトの書簡」。したがって、福音と律法の現実性における勝利の福音の内容は、次の点にある――すなわち、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子<>信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の属格を「目的格的属格」(「イエス・キリスト<>信じる信仰」)として理解された信仰に由って生きるのではなく〕、神の子<>信じ給うことに由って生きるのだということである〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の属格を「主格的属格」として理解された信仰、まさに徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解された「イエス・キリスト信ずる信仰」に由って生きるのだということである〕)』(ガラテヤ二・一九以下)。〔それ故に、〕(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいるしかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではないそのことが現実であるのはただわれわれのために人として生まれわれわれのために死にわれわれのために甦り給う主イエス・キリストが彼にとってもその主でありその避け所でありその城でありその神であるということにおいてのみである」という点にある。われわれの「召命」、「和解」、「義認」、「聖化」、「救済」、「更新」を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うたイエスキリストにある復活の力だけである」。したがって、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが」、換言すれば「貧民窟、牢獄、養老院、精神病院」、「希望のない一切の墓場の上での個人的な問題……特殊な内的外的窮迫、困難、悲惨」、「現在の世界のすがたの謎と厳しさに悩んでいる(……これらが成立し存続するのは自分のせいでもあり、共同責任がある)」「闇のこの世」「以外には、何も眼前に見ないのであるが」、「しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」。したがってまた、この「イエス・キリスト<>信じる信仰」、言葉(理論)と行為(実践)を二元論的に分離し対立させて、説教(言葉)だけでなく行為も(社会的な政治的なそれも)必要であると声高に叫ばなくても、それが社会的な問題に対してであれ政治的な問題に対してであれ、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、その中での三位一体の唯一の啓示の類比としての神の第二の存在の仕方における神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、終末論的限界の下でのその途上性で、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が、純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになす、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行くところで、「ある状況下において、その状況に抗するそれとして」社会的なあるいは政治的な実践(行為)へと、「おのずから」、自然に必然的につれ出されて行くというそれである。「『<非>自然な』神学」の<立場>のバルトの場合は、徹頭徹尾、そうようになるのである。なお、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)については、Jimdofreeのホームページ「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」(その1)の「6.「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)について」を参照されたし。

 

一 創造主としての神」、「二 永遠なる父

一 創造主としての神

 「創造は父なる神に固有ナモノでありそのような方として父なる神は創造主である」。詳しく言えば、それは、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)、すなわち神の起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――「啓示者」・言葉の語り手・創造者、神の第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態に神の言葉)・和解者、神の第三の存在の仕方である「父なる神と子なる神の愛の霊」としての聖霊、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・イエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における創造主としての「父なる神に固有ナモノである」。「三位一体の根本命題に即して理解すれば父なる神は創造主としての神創造の神である」。

 

 「神の支配的な名は旧約聖書においてはヤハウェ新約聖書においては主キュリオスである。(中略)そこで語られている主は、〔「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、ここにおいて、われわれは神の不把握性の下にある)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)において、〕……このわれわれ人間の歴史自体のただ中に向かう……」。第二の形態の神の言葉である「聖書の証言の最高点において(中略)ナザレのイエスが主である〔詳しく言えば、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているところの「最高点において」、「自己自身である神」として「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第二の存在の仕方、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」、「神の業の<衣>、<殻>、<特定ノ外形>」)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、この「ナザレのイエスが主である」〕」。しかし、「新約聖書は、この主という賓辞の中で表現されているような、まことの、実在の神性を、先ず第一に、イエスとは別の方に帰している」。すなわち、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」が「父なる神である」ことからして、その「根源」・「起源」としての「父が、子として自分を自分から区別した」ところの、その「区別された子としてのイエスが主であることは、明らかに、ただ、<父>なる神が主であることを現わす現われ、行使、適用である。〔それ故に、〕(中略)この父なる神を代表することそれがイエスに帰せられた神性の本質である」。したがって、「聖書的証言の本来的テーマは三位一体の第二の位格、〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第二の存在の仕方である〕子なる神キリストの神性を問う問いの中に父を問う問いと父ト子ヨリ出ズル御霊である聖霊を問う問いとが包括されている点にある」。

 

 さて、第二の形態の神の言葉である「聖書の中で〔証しされている〕主と呼ばれている方を問う問いに答えるに際しイエスは主であるという告白から出発するのが正しいとすれば主イエスキリストの父はそのイエスを通してイエスの身に起こることを通して誰をあるいは何を啓示しているのか?」、「その答えである誰は天の父であり創造主であるとすればそれでは何を啓示しているのか?」、「それは人間存在を徹底的に疑問化すること廃止すること人間の罪に対する罰〔裁き〕としての死人間を救い生かすための死を求めることである」(第二段落にある『福音と律法』の「福音と律法の<真理性>における福音の内容」を参照されたし。また、次の『福音主義神学入門』を参照されたし――「『もちろん福音をわたしは聞くだがわたくしには信仰が欠けている』その通り――〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。〔したがって、〕自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は『欠けていない』、自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。〔したがってまた、〕(中略)信じる者は、自分が――つまり〔生来的な自然的な〕『自分の理性や力〔感性力、悟性力、想像力、意志力、自然を内面の原理とする禅的修行等々〕によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それ故に自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、〕『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」)。なお、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)についてはJimdofreeのホームページ「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」(その1)の「1.イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>および<まことのイスラエル、民、イエス・キリストの教会>」および「10.『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』について(その1)、(その2)、(その3)、(その4)」の内の(その4)の「『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』についての<バルトの総括>を参照されたし。

 

 「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、ここにおいて、われわれは神の不把握性の下にある)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三の対象」、「三つの神的我」ではない)の「根源」「起源」である「父なる神」は、すなわちキリストにあっての神としての「一人の神」の「根源」「起源」である「父なる神は、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父として、〕人間の生と死を支配する主である限り厳格な意味でわれわれの存在の主であるわれわれの存在の主』〔それ故に、自然の一部であるところ、自然史の一部であるところの、われわれ人間の個と現存性(人間の個の時間性、個体史、自己史)――人間の類と歴史性(人間の類の時間性、歴史、人類史、世界史)を支配する主〕、換言すれば創造主である父なる神の意志はわれわれの生命意志を絶対的に左右する力を行使する」。「イエスの中で再発見されるのは、……イザヤ書53章の苦難の僕である(使徒行伝826以下)。イエスの生涯の歴史は、四つの福音書のいずれにおいても、……死ぬことの歴史と述べられている、人間ナザレのイエスの死の彼方に、彼を父なる神の啓示たらしめる光が彼の上に落ちてくるところの場所がある。死人からの復活により彼は神の御子と定められた』(ローマ14)。「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における「啓示と和解がキリストの神性の根拠ではなくて」、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての「キリストの神性が啓示と和解を生じさせるのである」。すなわち、「赦す神は、たとえその人がまことの人間であっても人間に内在することはないのである」。「イエスを死人のうちから甦らせることの中で父なる神は彼に対しまた彼を通し行動し給う(ガラテヤ11、Ⅰコリント614、ローマ42464、エペソ120)」。「イエスにあってそのようにご自身を啓示し給う方を信者は『アバ、父よ』と呼ぶ(ガラテヤ46、ローマ815)。マタイ69以下の『天にいますわれらの父』、すなわちあなたの『御名』、あなたの『御国』、あなたの『御心』に対するこの三つの願いは、新約聖書の脈絡においては、われわれに、死ななければならないこと〔われわれは救われ生きるためには死ななければならないこと〕を考えることを〔このことを認識し、自覚することを〕教えてくださいということと同意義のものである」。このように、「イエスが父として啓示する方は徹頭徹尾、〔われわれ人間が救われ生きるためにのみその死を欲し給うという意味においてであるが、〕人間の死において人間の現実存在の終わりにおいて認識される」。「父なる神は、われわれの生を、死を通して永遠の生命へと導くために、死を欲し給う……われわれの生が、死を通して永遠の生命へと貫き進むことを欲し給う。父なる神のみ国はこの新しい誕生のことである」。この意味で、区別を包括した単一性において、客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「十字架の死は、死において死が、否定において否定が、克服された」それである。ここで、死、否定、疎外とは、死、否定、疎外の止揚である、新しい段階へ移行である――「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」、すなわち「旧約〔「神の裁きの啓示」、律法、死〕から新約〔「神の恵みの啓示」、福音、生〕へのキリストの十字架でもって終わる古い世〔、時間〕は、復活へと向かっている」、「このキリストの復活〔すなわち、「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「光」、「イエス・キリストにおける啓示の時間」、「われわれのための神の時間」、「われわれの時間の中で、実在の成就された時間」、「まことの過去」<と>「まことの未来」を包括した「まことの現在」」〕は、新しい世〔、時間〕のはじまりである」。「十字架の力は……復活であり生命を失うことの力は生命を得ることである」。「キリストにあって、イエス・キリストの父としての父なる神」は、徹頭徹尾、存在的にも認識的にも「創造主なる神〔創造の神〕である」。「われわれは、このことを、〔第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての〕三位一体論の根本命題を手にして理解しなければならない」。

 

二 永遠なる父

 「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・「神性」・「永遠性」を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「神が、〔その「根源」・「起源」としての〕父であることの永遠性は父の子および霊〔神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊、「父ト子ヨリ出ズル御霊」〕との交わりの永遠性を意味するばかりでなくまた父を子および霊と一つにしてしまうことから保護する〔換言すれば、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――「啓示者」・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)ということを保護する」、すなわち「父と子をあくまでもそれらの相違性の中で一つ〔換言すれば、「神の本質の単一性と区別」〕であらしめている〕」――このことは、「聖書の証言……と一致している」。「父は、自分自身の中で父である方として、自己を啓示する。この方は、ご自身神であるみ子、イエス・キリストの父であり、そして子としてのイエス・キリストの父として、われわれの父である方である」。そして、「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊であるから、われわれは、恵みの賜物である聖霊を受けることによって、イエス・キリストが神の子であるという概念を根拠として、神の子供、世つぎ、神の家族であり、『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)ことができるし、和解者が神の子であるが故に、……和解、啓示の受領者たちは、〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、〕神の子供である」。――「わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く」。

 

 そのような訳で、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神は、〔「排他独占性において、〕イエスを通して知られない限り〔換言すれば、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づかない限り、〕、われわれの父として創造主として全く知られない」。何故ならば、「父なる神は、イエスの中でのみ、創造主として、したがってわれわれの父として、啓示される」からである。「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての「神は前もってご自身の中で〔その「根源」・「起源」としての〕父であり給う」。このことを念頭に置いて、第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての「三位一体教義は、父なる神の位格、存在の仕方について語るのである」。「父なる神は創造主としての神創造の神永遠の父である」――この「神だけが、ご自身で現にあるところのものとして、したがって彼の永遠の子の永遠の父として、本来的なまた全く適した意味で父と呼ばれることができる方である」。したがって、われわれは、例えば「内被造物界での……父という呼び名は、確かに真実である」が、それは、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での客観的なその「死と復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」・「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に依拠した信仰の類比を通して「神の<内>三位一体的父の名の力と威厳に依存しているとして理解されなければならない」。

 

 さて、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「神は〔キリストにあっての神としての〕神である」。したがって、このキリストにあっての神としての神は、「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語るところの、次のような神ではない――すなわち、例えば客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に「『自然』神学」、「<キリスト教的>『自然』神学」の問題を明確に提起した(批判した)ルートヴィッヒ・フォイエルバッハによれば、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『宗教の本質にかんする講演』)し、「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語るキリスト教における「(中略)神の啓示の内容は、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神としての神から発生したのではなくて、〔徹頭徹尾第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方ではないところで、それ故に類的機能を持つ自由な〕人間的理性〔・自己意識・思惟〕や〔際限なき〕人間的欲求やによって規定された〔恣意的独断的な人間自身の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」としての〕神から発生した……」し、それ故に「この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」し、まさに「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」(『キリスト教の本質』)――このような神ではない。ここで、「われわれは、言うまでもなく、……一般に人間について語っているのではなく、教会の中での人間について語っている、換言すれば一方において罪、死、悪魔、他方において説教、聖礼典、神の言葉によって強力に挟み撃ちされている人間について語っている」、「われわれは、……何かある一つの自然神学と取り組んでいるのではなく、まさにキリスト教的>『自然神学と取り組んでいる」。すなわち、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカント〔「何かある一つの『自然』神学」〕は、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説〔<キリスト教的>『自然』神学と一致する」(『カント』)――この後者のような、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)に「信頼しない」ところの、それ故に「教義学的な合理主義を明確に否定しない」ところの、すなわち「『自然』神学」の「問題を明確に提起する」ことができ得ていないところの、それ故に「『自然』神学」から対象的になって距離を取ることができず、それ故に「『自然』神学」から対象的になって距離を取らないで「『自然』神学」を前提するところの、それ故に徹頭徹尾第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、啓示神学の立場に立脚しないところの、それ故に一般的啓示、一般的真理、「存在ノ類比」の立場に立脚するところの、「存在するものそのもの、その純然たる造られた存在、造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」(『教会教義学 神の言葉』)というアウグスティヌスの思惟と語りにおける<キリスト教的>『自然』神学〕と取り組んでいる」。言い換えれば、「少なくともさし当って先ず、見たところは啓示からしての神の認識可能性とそれに対応する神学を否定せず、……自分〔自分の「『自然』神学」〕を〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別〕『啓示』の神学の<傍らに>〔「並べて」〕置こうとしているように見える神学〔すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示に規定された「『啓示』の神学」だけでなく、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された人間自身の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」もと主張するところの、「『並存』の神学〕、「『混合』神学」〕」、それ故に「見たところは、至極要求がましくなく、謙虚な態度で登場し、断言的に語らずただ仮説的に語り、本来的な神論ではなく、ただそれの序論を、いわゆる信仰ノ前置きを述べようとしており、事柄そのものを語ろうとせず、ただ事柄を導入しその理解を準備しようとしている神学」、「それであるから、啓示、恵みをただ単に<また>承認するだけでなく、啓示、恵みに対して内容的にも形式的にも<優先権>を与えている、いや無条件的にさらに大きな重要性と正しさを認めている〔<キリスト教的>〕『自然』神学と……取り組んでいる」(『教会教義学 神論』)。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているところの「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「ご自身を子の中で創造主としてまたわれわれの父として啓示する神である〔換言すれば、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父は、子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された子は、父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は父と子が根源である。この神は、子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する」〕。神の三位一体的な父の名神が永遠の父であることは神が神のそれ以外のほかの存在の仕方〔第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――すなわち、「啓示」・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<と>第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕の創始者である神の存在の仕方〔起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――すなわち、「啓示者」・言葉の語り手・創造者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕を表示している」。「ここで父霊の働きの単一性は〔すなわち、「神の本質の単一性と区別〔差異〕」(区別・差異を包括した単一性)における「失われない単一性」は〕、……〔「失われない差異性」の中での三度別様な〕三つの存在の仕方の交わりとして〔すなわち、「三位相互<内在性>」として〕理解されるべきである」。この「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方におけるその第二の存在の仕方である「子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する」。したがって、その内在的本質から言えば、「父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。同様に、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある」。「これらの出来事は神の中での出来事としてある」――「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「子と霊は父とともにひとつの本質である」。「神的本質のこの単一性〔すなわち、「神の本質の単一性と区別〔差異〕」(区別・差異を包括した単一性)における「失われない単一性」〕の中で、その「根源」・「起源」としての「父が区別した子は、父からであり〔父を「根源」・「起源」とするのであり〕、また神的愛に基づく父と子の交わりとしての霊〔聖霊〕は、父と子からであり〔聖霊は父と子を「根源」・「起源」とするのであり〕」、「他方〔「根源」・「起源」としての〕父は自分自身以外の何ものからでもない〔すなわち、父は自分自身が「根源」・「起源」である〕」。

(文責:豊田忠義)