.カール・バルト『教会教義学 神の言葉2 神の啓示<上> 三位一体の神 十二節 聖霊なる神』について

 

十二節 聖霊なる神」について、次のような定式化を行っている

一人の神は聖書によれば救済主としてすなわちわれわれを自由にするところの主としてご自身を啓示し給う神はそのような方としてそれを受けることを通してわれわれが神の子供となるところの聖霊である何故ならば聖霊は、父なる神と子なる神の愛の霊として前もって自分自身の中でそのような方であり給うからである」。

 

この定式は、次のように理解することができる。

 一人の神は――すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、ここにおいては、われわれは「神の不把握性」の下にある)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)は、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての第二の形態の神の言葉である聖書によれば、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「根源」(「起源」)である「父は、子として自分を自分から区別するし、自己啓示する神として自分自身が根源である」ことからして、「その区別された子は、父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は父と子が根源である」という仕方で、救済主としてすなわちわれわれを自由にするところの主としてご自身を啓示し給う」。何故ならば、われわれは、「肉であって、それ故に神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持っていない」し、生来的な自然的な「『自分の理性や、〔感性、悟性、意志、想像等の〕力によっては』――全く信じることができない」からである。したがって、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神は、われわれに対して、子としてのイエス・キリスト自身における神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)としての、客観的な「存在的な<必然性>」――すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」――すなわち、その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」を前提条件とするところの詳しく言えば救済を信仰の中で持つことは、約束として持つことである。われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる。この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する。この信仰の確実性は、希望の確実性である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である聖霊を受け、満たされた人は、召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、<すでに>と<いまだ>において終末論的に語る。ここで、終末論的とは、われわれの経験と感性にとっての<いまだ>であり〔換言すれば、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり〕、〔神の側の真実としてある〕成就と執行、永遠的実在として<すでに>ということである」という<終末論的な>「信仰の出来事」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」(「根拠」性、「原因」性、「理由」性、「理性」性)――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)の関係と構造(秩序性)<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」(「根拠」性、「原因」性、「理由」性、「理性」性)――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性という「総体的構造」(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)を贈り与えるという仕方で、「ご自身を啓示し給う」。「聖霊は、われわれの救済主である。しかし、聖霊は、〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」として、〕救済主であるだけでなく、子とともに、子の霊として、また和解者でもあり、また父および子とともに創造主なる神でもある。新約聖書のイエスは主であるという証言は、イエスを事実の承認として、思惟の初めとして語っている。したがって、このイエスは主である、子を通しての父を、父を通しての子を信じる信仰、神との出会いであるイエスとの出会い、信仰の出来事は、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「キリストの霊」である「聖霊の注ぎ」による。この「信仰の出来事」は、新約聖書において、客観的な啓示の出来事の中での主観的側面、聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事〔すなわち、人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識の出来事、啓示認識(啓示信仰)の出来事〕のことである。神はそのような方としてそれを受けることを通してわれわれが神の子供となるところの聖霊である」。「イエスが聖霊の特別な働きとして約束したものは、慰め主としての霊<と>真理の御霊であるが、聖霊は、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である〕聖書の中のキリスト教原理を、覆いをとって明らかにするキリストについて語ることができる能力(ヨハネ一四・二六)であり、上からのよき賜物である。この聖霊の注ぎにより聖霊を持つということは、キリストにおいて起こった和解にあずかることであり、キリストと共に、死から生命への方向転換に置かれることである。この二つの方向転換においてイエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質は〔すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」としてのイエス・キリストにおける「啓示の出来事」の中での<主観的側面>としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」に関わる聖霊の本質は〕、キリストにある自由を意味しているこの聖霊が、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「聖書への<絶対的>信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である〕教会を、み言葉の奉仕へと向かわせるのである。また、聖霊はみ子の霊であり、それ故に子たる身分を授ける霊であるから、われわれは、聖霊を受けることによって、イエス・キリストが神の子であるという概念を根拠として、神の子供、世つぎ、神の家族であり、『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)ことができるのである。そしてまた、和解者が神の子であるが故に、……和解、啓示の受領者たちは、〔受領者と授与者との無限の質的差異を固守するという<方式>の下において〕、神の子供なのである」。何故ならば聖霊は、父なる神と子なる神の愛の霊として前もって自分自身の中でそのような方であり給うからである〔何故ならば、聖霊は、<前もって>、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」) としての自己還帰する対自的であって対他的な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「根源」(「起源」)である「父は、子として自分を自分から区別するし、自己啓示する神として自分自身が根源である」し、「その区別された子は、父が根源である」ことからして、「父ト子ヨリ出ズル御霊」である「神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は、父と子が根源である」からである。<前もって>、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的あって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「聖霊は、ご自身の中で、父を子と、子を父と結びつけるところの交わり、愛である」。それからまた、この神は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)――すなわち、起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父(「父は子の父、言葉の語り手」)と子(「子は父の子、語り手の言葉」)の交わりである「啓示されてあること」・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体において、「現にあるところの方であり給う」。この「神の第三の存在の仕方として、聖霊、愛が存在するということ、そのことを父と子は、共通にもっている」。「聖霊は、父なる神と子なる神の愛の霊である」。この「三位一体の神は、子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する」のであるが、この神は「失われない単一性」を内在的本質とすることからして、「父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であるし、同様に父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある」。

 

新訳聖書の証人たちはイエスは主であるという証言をイエスに関する……<思惟の目標として言うのではなく、……<思惟の始めとしてイエスが主であるが故に言うのである」。したがって、「彼らは、イエスは、上からの、あるいは下からの半神である神的理念が人間の姿をとったものでもなく、超人でもなく、イエスは神である、と言うのである」。すなわち、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」――このイエスは、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」である。したがって、客観的な「存在的な<必然性>」とその主観的な側面である主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、換言すれば神のその都度の自由な恵みの神的決断によるその客観的な「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識(啓示信仰)」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」は、学業的な「ただ単なる知識のように、先ず〔類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって〕吟味された後ではじめて受け入れられるというものではなくて、イエスとの出会いそのものが神との出会いであるという出会い方における認識、信仰である」

 

 そのような訳で、われわれは、「彼らが、子を通して父を、父を通して子を信じるということはいかにして起こるのか」という信仰の認識としての神認識啓示認識啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事の可能性の問いの前に立たされる時その出来事の起源、神のその都度の自由な恵みの神的決断によるその客観的な(十字架)と復活の出来事におけるイエスキリストの啓示の出来事(客観的な「存在的な<必然性>」)その啓示の出来事の中での主観的側面としての聖霊の注ぎによる主観的な信仰の出来事(客観的な「存在的な<必然性>」の主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」)に置くのである。「啓示におけるこの特別な要素は……、新約聖書がまさに〔客観的な〕啓示の出来事の中での主観的側面として……、聖霊と呼ぶところのものと同一である」。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』(Ⅰコリント123)と言うことはできない」。したがって、客観的な「存在的な<必然性>」とその主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「聖礼典的な実在」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)の関係と構造(秩序性)<と>その中での主観的側面としての徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性(主観的な「認識的な<ラチオ性>」)に基づいて、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に対する「他律的服従」(『説教の本質と実際』によれば、「聖書への<絶対的>信頼」)<と>そのことへの決断と態度という「自律的服従」との<全体性>において、「純粋な教え」としてのキリストにあって神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(すなわち、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(すなわち、区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになす聖書の中で証しされているキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え――これこそ「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、〔第三の形態の神の言葉である〕教会が<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指していくというイエス・キリストの教会の歩みのベクトルは、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>によるものである。

 

 さて、「ヨハネの名による洗礼イエスの名による洗礼の差異はイエスの洗礼には聖霊概念が存在するという点にある(使徒行伝192以下)」――「イエスは(洗礼者ヨハネと違って)聖霊によってバプテスマを授ける方である(ヨハネ133)」、「神の霊、キリストの霊は、神の子と同じように比喩的表現である。ここで霊(プネウマ)は、ここから来り、秘義に満ちた仕方で彼方へと去ってゆく風である(ヨハネ38、使徒行伝22)。精密には、息、(目に見えない仕方で、また両者の間の空間的な<へだたりをなくすことなしに>〔換言すれば、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>を揚棄することなしに、それ故にあくまでもその<方式>の下で、〕ひとつの生けるものの口から出てほかの生けるものにとどくことができる息、である(テサロニケ28、ヨハネ2022)。キリストにあっての神が、われわれにこの霊〔聖霊〕を注ぎ与え、われわれがそれを受けることは、〔信仰の認識としての神認識の出来事、啓示認識(啓示信仰)の出来事、人間的主観に実現された神の恵みの出来事としての〕信仰をまた宣教の教会を造り出すことであり、その教会に約束とともに救いを与えることでもある。その教会の中で、〔あくまでも徹頭徹尾「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>の下で、〕神は、彼らのものとなり、彼らを彼のものとなし給う。この意味は、聖化、すなわち、それを受けたところの人間の選り出すこと、……自分では、自分からは、あり得ないし、なり得ないところのものになるということ、また聖書の語り方の原型、……創世記27(中略)神が人の顔に生命の息をふきこまれ、……まさにそのようにして始めて、人は生けるものとなったということである」。「神の霊聖霊は神が単に人間のところにまで来るというだけでなく、〔あくまでも徹頭徹尾「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>の下で、あの客観的な「存在的な<必然性>」とその主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」とその主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」に基づいて〕人間の中にいましそのようにして人間をご自身に対し開かせ、……そのようにして神の啓示を人間の上に遂行しうる限りにおいて、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての「啓示されてあること」・起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における「第二の存在の仕方」(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である〕啓示の中における〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕神自身である」。

 

 バルトは、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題ではあるが、イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団〔共同性〕において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」と述べている。したがって、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教的な信仰、神学、教会の宣教、包括的に言えば「『自然』神学と抗するために、〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)の堅持の下で〕神の霊と人間の精神の全面的な区別〔神と人間との無限の質的差異〕が強調されなければならない」。したがって、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる「啓示の主体的現実を〔人間的主観に実現された神の恵みの出来事、啓示認識(啓示信仰)の出来事、信仰の認識としての神認識の出来事を)〕、人間の業としてではなく、まさに神の霊の行為〔「聖霊の注ぎ」〕としてとらえることによって、聖霊を、神の似姿の『唯一の現実』として、人間の『恩寵に敵対する態度』に立ち向かって戦うものとして、実存を超えたところにある神の子としての身分の創造者として理解しなければならないその上で聖霊と密接に関連して記されている真理の柱真理の基礎とは、〔三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉である〕イエス・キリスト自身であり、〔それ故に、具体的には起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である〕聖書であり、〔それ故にまた、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である〕神の教団イエスキリストの教団使徒ヨリノ唯一ノ聖ナル公同教会のことであってイエス・キリストと個人的関係を持つその肢々としての一人一人のキリスト者、キリスト者個人のことではない」(『カール・バルト教会教義学 和解論 Ⅰ/1 「和解論の対象と問題」』)。したがって、聖書の中で証しされている神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける究極的包括的総体的永遠的な<救済>とその包括的な救済概念と同一である<平和>は、第三の形態の神の言葉である「神の教団、イエス・キリストの教団、使徒ヨリノ唯一ノ聖ナル公同教会」と「イエス・キリストと個人的関係を持つその肢々としての一人一人のキリスト者、キリスト者個人」との<全体性>において思惟し語られるべきである。

 

 旧約聖書および新約聖書において神の霊聖霊、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての「啓示されてあること」・起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における第三の存在の仕方(聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)において、神とは全く異なる「被造物に対して現臨されこの現臨によって彼自身に対する被造物の関係づけを実現しそのことによって被造物に生命を与えることのできる神ご自身である」。すなわち、「旧約聖書および新約聖書において神の霊、聖霊」は、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で「信仰の認識としての神認識」の出来事、「啓示認識(啓示信仰)」の出来事、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えるところの神ご自身である。したがって、「われわれは啓示ないし和解なしには確実に失われたものであることが確かである限り、……啓示を必要とする」。何故ならばまさに客観的な啓示ないし和解の実在そのものとしての起源的な第一の形態の神の「<言葉を与える主は同時に〔その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」に基づいて、終末論的限界の下で〕<信仰を与える主である」からである。したがって、第二の形態の神の言葉である「聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示、イエス・キリストの啓示の出来事の宣べ伝えを目指すことのない〔包括的に言えば、「『自然』神学」の段階で停滞し循環する、木を見て森を見ない、「人間学の後追い知識」としての学業的な〕ただ単なる知識としての形而上学的な教義学は、それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方のものであっても、その教義学は、〔教会の宣教における一つの「補助的機能」、「教会的な補助的奉仕」としての〕教義学としては<非>学問的なのである」。「聖霊は真理の博士、ソレヲ通シテワレワレガ聖化サレル神ノ指である、ワレワレヲ再生サセ、新タナ被造物ニシ、カクシテワレワレハ、イエス・キリストニオイテワレワレニ贈ラレテイルスベテノ宝ト贈物トヲ、聖霊ニヨッテ受ケルノデアリマス、聖霊は結ビツケルモノ、照ラシ出スモノ、聖化スルモノである」。

 

 さて、「父ト子ヨリ出ズル御霊聖霊「神的愛に基づく」、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」(「起源」)としての「父<と>父が子として自分を自分から区別した父を根源とする子の交わりでありその交わりの中で、父は子の父、言葉の語り手であり、子は父の子、語り手の言葉であるところの行為〔・性質・働き・業・行動、外在的本質、第三の存在の仕方である」。このような訳で、「三位一体の根本命題に即して理解すれば、聖霊なる神は、三度目に、父と子の二つの存在の仕方から生じる一つの存在の仕方〔第三の存在の仕方〕である。したがって聖霊は〔啓示者・言葉の語り手〕と子〔啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)〕の啓示に対する特別な第二の啓示ではない聖霊は、父なる神と子なる神の愛の霊である。ここに、聖霊の起源がある。ここに、神は愛、愛は神であることの根拠がある。愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在である。聖霊は、三度目の最後的な存在の仕方として、神にとって最高の法則、愛であって、その愛に基づく父の存在の仕方〔啓示者・言葉の語り手・創造者〕と子の存在の仕方〔啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者〕の交わりであり、〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下での〕神と人間との交わりの根拠である」。「愛」は、「自由、主権」がそうであったように、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」。「神的愛に基づく」、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」(「起源」)としての「父<と>父が子として自分を自分から区別した父を根源とする子の交わりである聖霊その外在的本質(様態、性質・働き・業・行為・行動)からすれば、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における起源的な第一の存在の仕方である父と同一でないように、第二の存在の仕方である神の子、神の言葉とも同一ではない」。したがって、「Ⅱコリント317の命題主は霊であるとはイエスキリストと霊との同一視が問題ではなくてすなわち、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第二の存在の仕方と第三の存在の仕方との同一視が問題ではなくて〕、主が、〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」として、〕自由と神性を本質としていることを意味している」。「この〔「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である〕聖霊はイエスキリストの死と復活の彼方においてのみすなわち客観的啓示の終結および完成〔終末、復活されたキリストの再臨〕の前提の下でのみ存在する」。「キリストの復活と完成〔終末、復活されたキリストの再臨〕との間は、イエス・キリストの父であり、イエス・キリスト自身であり、この父とこの子の霊としての聖霊の時代である」。「復活され高挙された主から、われわれに下ってくるものが霊である。この聖霊の<降下>は、使徒行伝の考えである(使徒行伝2210441115)。したがってヨハネ2022聖霊を受けよただ復活せるキリストの言葉でのみあり得る」。したがってまた、「使徒行伝2章において聖霊降臨はイエスの生涯復活についての完了され成就せるケリュグマに付け加わってくる業〔神の第二の存在の仕方〕として記述されている〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第三の存在の仕方、すなわち聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事として記述されている〕」。

 

 「新約聖書における〔客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての〕聖霊の三つの意味と働き次の点にある

客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」――(主観的な「認識的な<必然性>」)を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)とその主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性に関わる「聖霊は人間の啓示への個人的な参与を保証する」。すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち起源的な第一の存在の仕方である啓示者・言葉の語り手・創造者としてのイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての「啓示されてあること」・起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における第三の存在の仕方(聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である「聖霊」は、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)に基づいて贈り与えられる終末論的限界の下での「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識(啓示信仰)」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」への参与を保証する。この聖霊の働きの中で神の言葉に向かっての然り、〔すなわち人間が人間的に所有する人間の〕信仰〔啓示信仰〕、認識〔啓示認識〕、従順が存在する」。「ここで注意すべきことは聖霊についてのパウロの見解すなわち霊はわれわれの中に住み給う』(ローマ書8911についてである」。このことは、ちょうど第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学における思惟と語りが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であってわれわれ人間の決定事項ではない」ということである。したがって、それは「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度(「祈りの態度」)に対し神が応じて下さる(「祈りの聞き届け」)ということに基づいて成立している」というように、「聖霊の注ぎあくまでも徹頭徹尾神のその都度の自由な恵みの神的決断によるということであるすなわちそれが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間があくまでも徹頭徹尾神のその都度の自由な恵みの神的決断により聖霊を受けるが故に受ける限りにおいて人は神の宮であるコリント316619コリント616)」ということである――このことは、徹頭徹尾われわれ人間の自由事項、決定事項に属していないということである。したがって、「『自然』神学」の段階で停滞し循環するルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠した東京神学大学の実践神学者・小泉健の、聖霊や聖霊の言葉を人間の側の自由事項および決定事項として、聖霊や聖霊の言葉を実体化させたところの、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」という思惟と語りは、まさに「誤謬に普遍性と組織性の後光をかぶせて語ろうとする」(吉本隆明『カール・マルクス』)語りでしかないものである。「パウロにおいて霊にあってとは、救いの福音を聞き、信じるようにさせる霊、知恵と啓示の霊による神の啓示への参与〔すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる主観的な「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識(啓示信仰)」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」〕、人間の思惟、行為、語ることを、主観的に表示している概念である。また、「パウロにおいてキリストにあってとは〔客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの〕「啓示の出来事と全く同じ事柄を、客観的に表示している概念である」。

 

客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」) ――この「存在的な<必然性>」と「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)その主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性に関わる聖霊はわれわれ人間に対して教化と指導を与えるのであるがそれは、〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、〕聖霊がわれわれ自身と同一でないということわれわれ自身と同一になることはないということを意味している」。「パウロの人間論の概念として……聖霊は全面的に部分的に、起源的にあるいは後になってからでも、人間の本質に属するものであると言っているのではなく、むしろ……聖霊を受けることが現実となり得るところの場所(Ⅰテサロニケ523)、〔人間の〕からだ<と>霊魂を超えた彼方での場所を表示している〔詳しく言えば、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、あくまでも神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中で主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」に基づいて、人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事が現実となり得るところの場所、すなわち聖霊によって更新された人間の身体を座とする人間の理性性を超えた彼方での場所を表示している〕」。このような訳で、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての「啓示されてあること」・「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事である「聖霊は……主であり続ける聖霊は慰め主として、……『真理の御霊である(ヨハネ141715161613)。聖霊はあなたがたにすべてのことを教えまたわたしが話しておいたことをことごとく思い起こさせるであろう(ヨハネ1426)」。

 

客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)――この「存在的な<必然性>」と「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)その主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性に関わる聖霊は第一に、キリストについて語ることができるようにする能力付与である。それは、第二に、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書、「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」、〕預言者および使徒に力を与える装備である。それは、第三に、〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会を、〕み言葉の奉仕へと召す〔「召命」する〕」――このことは、「聖霊はわれわれを自由にする主であるということまたその賜物を受け所有することによってわれわれが神の子供となるところの主であるということを意味している」。先にも述べたことであるが、「イエスが聖霊の特別な働きとして約束したものは、慰め主としての霊と真理の御霊であるが、聖霊は、聖書の中のキリスト教原理を、覆いをとって明らかにするキリストについて語ることができる能力(ヨハネ1426)であり、上からのよき賜物である」。この「聖霊を持つということはキリストにおいて起こった和解にあずかることであり、キリストと共に死から生命への方向転換に置かれることである。この二つの方向転換においてイエスキリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質はキリストにある自由を意味している」。したがってこのキリストにある自由とは次のことを意味している――すなわち、第三の形態の神の言葉である教会(すべての成員)が、客観的な「存在的な<必然性>」とその主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」とその主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」に基づいて、それ故に具体的には「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、聖書に対する「他律的服従」(『説教の本質と実際』によれば「聖書への<絶対的>信頼」)とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との<全体性>において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学の包括された「正しい行為を問う」特別的な<神学的>倫理学の問題、すなわち純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、純粋な教えとしてのキリストの福音を全世界としての教会自身と世のすべての人々が現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え、『福音と律法』によれば「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が〔全世界としての〕教会自身<と>世〔のすべての人々〕に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指していくということを意味している。バルトは、『教義学要綱』で、次のように述べている――「『神がそこでわれわれに出会い給うその恵みの御言葉は、イエス・キリストと呼ばれる。すなわち、神の子にして人の子、真の神にして真の人、インマヌエル、この一つなる方におけるわれらと共なる神である』と、答えうるにすぎない。キリスト教信仰は、この『インマヌエル』との出会いである。イエス・キリストとの出会いであり、イエス・キリストにおける神の活ける御言葉との出会いである。われわれが〔第二の形態の神の言葉である〕聖書を神の御言葉と呼ぶ場合……、われわれは、それによって、聖書を、この神の唯一の御言葉についての(イエス・キリストについての、神のキリストであり永遠にわれわれの主にして王なるイスラエルから出たこの人についての)預言者・使徒の証しとして、考えているのである。そして、われわれがそのことを告白する場合、われわれが〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である〕教会の宣べ伝えを神の御言葉と敢て呼ぶ場合、それによって〔「啓示ないし和解に実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である〕イエス・キリストの宣べ伝えが理解されていなくてはならない」。『説教の本質と実際』によれば、「説教の無条件的な出発点と目的は、新約聖書において聞く啓示、和解、その内容であるインマルエル、『神われらと共にいます』である。したがって、われわれは、キリストからすべてのことを期待しなければならない。このことが終末論である。したがってまた、キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない。ここで説教は、感謝と確信と共に期待の態度と行動である。第一の来臨〔生誕、死(十字架)と復活〕と第二の来臨〔終末、復活されたキリストの再臨、「完成」〕との間〔聖霊の時代、中間時〕に、説教と、また同時にキリスト者の生活全体とがある。説教は、〔説教者の自由事項、決定事項ではないのであるから、〕自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において、聖書への<絶対的>信頼に基づく、<聖書講解>であることの義務を負っている。したがって、説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない〔聖書には、科学<主義>を宗教的形態とする近代以降の人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、情報等が不足している〕、と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生きようとしていないのである。〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身、〕福音は、われわれの思考や心情の中にあるのではなく、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である〕聖書の中にあるから、われわれの思想、最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさいを、聖書に聴従することの前で、放棄しなければならない。〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、〕その聖書は神の言葉となるところで、聖書は神の言葉なのである。したがって、聖書に聴従するために、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいた〕神の言葉自身の出来事の自己運動の中において、聖書によって導かれなければならない。説教者にとって、彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理は、神がすでになしたわたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた――神、罪深きわれらと共に、ということである。そこにおいて、説教は、会衆、特定の場所と時における全く特定の現在の人間の生活、彼らの生活がイエス・キリストの中に根拠と希望とを持つことを語ることである」、また「説教者は、説教として語る場合、〔聖霊や聖霊の言葉は、人間、説教者の自由事項や決定事項ではないのであるから、それ故に人間、説教者は、「わがまま勝手に」恣意的独断的に聖霊や聖霊の言葉を実体化させることはできないのであるから、〕聖霊が(あるいは別の霊であっても)言葉を吹きこむこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない。説教は語ることであるが、……一語一語準備し、書き記しておいたもののことである」。

 

 「聖霊はみ子の霊でありそれ故に子たる身分を授ける霊である」。われわれは、「聖霊を受けることによって、イエス・キリストが神の子であるという概念を根拠として、神の子供、世つぎ、神の家族であり、『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ815、ガラテヤ45)ことができる。また、和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示の受領者たちは、〔授与者と受領者との無限の質的差異の下において〕神の子供なのである」。「彼は聖霊を受けることによって、〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、〕神の子供である。(中略)彼は……子が彼の父に属するように神に属するものであり、子が彼の父を知るように神を知るものであり、父が彼の子のためにそこにいるように、そのもののために神がそこにい給う、『あなたがたはみな、神の子である』(ガラテヤ326)。したがって、『僕ではない……そうではなく世つぎである』(ローマ817、ガラテヤ47)、『聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである』(エペソ219)。〔客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」――この「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」に基づいて〕キリストにおいて起こった和解に彼があずかる参与は成り立っている」。

 

 客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」) ――この「存在的な<必然性>」と「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)とその主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性に関わる聖霊の働きの本質的なもの直接性は聖霊がわれわれに対して第一に一人の主なる神をのみ主として持つ自由をわれわれに与えるが故にそのように告白することを要求するという点にある。何故ならば、聖霊の働きは……ひとりの主、……神を主としてもつ自由から成り立っているからである。したがって真に自由たるものは、……〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神の僕として(Ⅰペテロ216自由である」、また第二にわれわれ人間の中にもわれわれ人間の中からも純粋なもの聖いものは何も出て来ないと告白することを要求するという点にある」、また第三にわれわれ人間の〔生来的な自然的な〕理性や力〔感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的修行等々〕ではイエスキリストを主と信じることもできず知ることもできないと告白することを要求するという点にある」、また第四にわれわれ人間の究極的限界性を告白することを要求するという点にある」。

 

 「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の客観的な信仰告白および教義(Credo)、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての「啓示されてあること」・起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)であるイエス・キリストを、「主イエスとして神ご自身として信じる信仰を告白した」。「聖霊の神性の定義である父ト子ヨリ出ズル御霊の聖霊は聖書証言に従えば神ご自身であり全き仕方で神である何故ならば、聖霊が被造物だとしたら、その時それは、〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>からして、〕われわれに対していかなる神との交わりをも仲介し得ないからである、新約聖書のキリストが、上からのあるいは下からの半神であるなら、イエスへの信仰は、〔客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性」を必要とせず、〕一つの人間的な可能性となるからである」。したがって、「その時には、聖霊の代わりに、人間の区別する能力、判断能力が登場してくる。その時には、終始人間ノ理性ト感覚に依存することになる〔すなわち、その時には、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟と感覚に、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依存することになる〕」。包括的に言えば、その時には、「『自然』神学」の段階で停滞と循環を繰り返すところの、<自然的な>信仰、神学、教会の宣教が登場してくる。

 

 客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)――この「存在的な<必然性>」と「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)とその中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性に関わる聖霊なる神はわれわれを自由にする救済主であるとは神についての神認識と神賛美の命題でありこの命題によればわれわれ自身は信仰にあって救われたもの自由とされたもの神の子供である」。このような訳で、われわれの救済はただ神の側からして理解することができるだけであるわれわれの救済を、〔神の側の真実としてある〕神から置かれしかも成就され執行されたとして理解することそれが信仰であるそして救済の完成〔すなわち、終末、復活されたキリストの再臨は〕、われわれにとって将来のものとして、……神の側からして……やって来るものとしてのみ理解できる」。したがって、「われわれが救済を信仰の中で持つということは、われわれは救済を約束として持つということである。われわれは、われわれの未来の存在を信じる。……永遠の生命を信じる、この未来性の中で、われわれは永遠の生を……所有する。この所有の確実性は……信仰の確実性である。この信仰の確実性とは、希望の確実性ということである。このことは、非本来的、非実在的ということということを意味しない、すなわちこのことは、〔神の側の真実としてのみある〕神的な事柄、神的成就と実行の永遠的実在として、われわれ人間の経験と思惟にとってまだきていないところのことということを意味している〔換言すれば、われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとって<いまだ>ということを意味している〕」。「新約聖書は、人間が召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、終末論的に語る」。何故ならば、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての「啓示されてあること」・起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>からして、「創造主が先にあり、それから被造物があるように、永遠性が先であり、それから時間があり〔すなわち、それから、われわれ人間の<歴史性>、われわれ人間の類の時間性、人類史、世界史、歴史があり〕、未来が先であり、それから現在がある〔すなわち、それから、われわれ人間の個の時間性、自己史、個体史がある〕」からである。「人間は永遠の生命を生きるのではない。<永遠の生命神の聖霊の賓辞であり〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての「啓示されてあること」・起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における第三の存在の仕方である聖霊からして〕、どこまでも神の聖霊の賓辞であり続ける」。先にも述べたように、「新約聖書によれば、神の恵みの賜物である聖霊を受け、満たされた人は、召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、<すでに>と<いまだ>において終末論的に語る。ここで、終末論的とは、われわれの経験と感性にとっての<いまだ>であり〔すなわち、われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり〕、〔神の側の真実としてある〕成就と執行、永遠的実在として<すでに>ということである」。われわれ人間が現存する場所は、キリストの復活と復活されたキリストの再臨までの間の中間時、聖霊の時代の中にあり、それ故にこの終末論的限界の下での中間時における人間は、<すでに>「自由の身になったという吉報を受け取った」けれども、<いまだ>「牢獄から外に出てしまっていない状態にある人間のことである」(『バルトとの対話』)。『福音と律法』においては、次のように述べられている――「人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが」、換言すれば「貧民窟、牢獄、養老院、精神病院」、「希望のない一切の墓場の上での個人的な問題……特殊な内的外的窮迫、困難、悲惨」、「現在の世界のすがたの謎と厳しさに悩んでいる(……これらが成立し存続するのは自分のせいでもあり、共同責任がある)」「闇のこの世以外には、何も眼前に見ないのであるが」、「しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」。

 

 新約聖書の意味での神の子供こそ、……〔人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、誰であれ、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる信仰の認識としての神認識の出来事、啓示認識(啓示信仰)の出来事、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に依拠した信仰の類比を通してのみ〕『わたしは〔生来的な自然的な〕自分の理性や力〔感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的修行等々〕ではイエスキリストを主と信じることもできず近づくこともできないことを信じますと告白する」。

 

一 救済主なる神」、「二 永遠なる霊

一 救済主なる神

 「三位一体の根本命題に即して理解すれば聖霊なる神は三度目に父と子の二つの存在の仕方から生じる一つの存在の仕方である」。言い換えれば、聖霊なる神は、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」(「起源」)としての「<父>と父が、子として自分を自分から区別した父を根源とする<子>」を「根源」とする神ご自身である――この「三位一体の神」は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者としての子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である神的愛にもとづく父と子の交わりとしての「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における三度目に父と子の二つの存在の仕方から生じる一つの存在の仕方である〔すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事である〕」。したがって、「父ト子ヨリ出ズル御霊である聖霊なる神は聖霊の神性の定義である」。したがってまた、聖霊なる神は、起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」としての父と第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)としての子に対する「特別な第二の啓示ではない」。「聖霊は、父なる神と子なる神の愛の霊である。ここに、聖霊の起源〔「根源」〕がある」。「聖霊において、父と子は、神的愛に基づく完全な共存的な交わりにおいて存在する。すなわち、聖霊は、その交わりの中で、父は子の父、言葉の語り手であり、子は父の子、語り手の言葉であるところの行為〔・働き・業・行動・性質〕である」、神の第三の存在の仕方である。「ここに、神は愛、愛は神であることの根拠がある。この聖霊は三度目の最後的な第三の存在の仕方として、神にとって最高の法則、愛であって、その神的愛に基づく父の起源的な第一の存在の仕方と子の第二の存在の仕方との交わりであり神と人間との交わりの根拠である〔換言すれば、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」に基づいて、終末論的限界の下で、人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を贈り与えるという仕方での神と人間との交わりの根拠である〕。したがってわれわれは、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているこの、「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つ存在の仕方」、起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父と第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者としての子と第三の存在の仕方である「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者としてある啓示の事実をただ承認し受認し確認できるだけである」。第二の形態の神の言葉である「聖書によれば聖霊はわれわれ人間の救済主である〔すなわち、聖霊は、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」(「起源」)としての<父>と「父が子として自分を自分から区別した父を根源とする」<子>とを「根源」とする神ご自身であるが、この「三位一体の神」は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者としての子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である神的愛にもとづく父と子の交わりとしての「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における<三度目>に、父と子の二つの存在の仕方から生じる一つの存在の仕方、すなわち第三の存在の仕方である〔神的愛にもとづく父と子の交わりとしての「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事である〕」ということからしてわれわれ人間の救済主である〕」。「この陳述が成り立つためにはいかなる特別な弁証法的総合も必要としないただ〔「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」としての第二の形態の神の言葉である〕聖書の陳述そのものをそのまま成り立たしめ、……ただ真面目に真剣にとることだけを必要としている」。したがって、第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>「教義は、ただ、新約聖書の中で、もちろん、自明的に見出され得たし、見出され得るというのではないが、とにかく新約聖書において多かれ少なかれ明瞭に指し示されていることを、述べているだけである。すなわち聖霊についての教義はそれ自体そのまま聖書の中に出てくるのではなくそれは〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とするところの、第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学における〕聖書の釈義である」。

 

 そのような訳で、第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の客観的な>「教義としての父ト子ヨリ出ズル御霊である聖霊は真の本来的な、<永遠的な神性の定義である」。したがって、「二世紀……三世紀の教父たちの聖霊は一つの被造物……被造物的な力であるとする従属説的な見方や聖霊は、子あるいはロゴスと同一であるとする様態論的な見方は、根本的な原理的な誤謬の下にある」、ちょうど近代主義的プロテスタント主義的キリスト教の信仰、神学、教会の宣教が、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない場合、和解に関して言えば、赦す神が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が思弁でしかない」ように、根本的な原理的な誤謬の下にある。そのような思惟と語りにおいては、「イエス・キリストは、下からの半神、超人、人間の最深の本質、最高の理想という空虚な概念でしかなくなってしまう」。起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「キリスト教に固有な聖霊についての教義が教会において確かな地位を占めるにいたることを困難にさせている要因、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)やそれに類するキリスト教指導者たちが、「人間学の後追い知識」としての混合神学、人間学的神学、哲学的神学、包括的に言えば「『自然』神学」の段階の中で停滞し循環して、自然科学系と人文科学系の自由な学問と研究の場である「人間学の後追い知識」としての「大学社会の神学」から自覚的に対象的になって距離を取り得ていないからである。彼らが、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)を揚棄してしまって、大なり小なりの差異はあれ、「聖霊と人間精神」、「聖霊」と類的機能を持つ人間の自由な「自己意識」、「理性」、「思惟」とを同一化させようとするからである。この「問題を明確に提起する」ことができないその時には、次のような事態を惹き起こすのである――すなわち、「人間の内的生活は、自分の類、自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」が故に、そのことに対して自覚的に対象的になって距離をとり得ない時には、「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」、「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」、「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、「(中略)神の啓示の内容は、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神としての神から発生したのではなく、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)、「『今日まさにこのマールブルクでは〔すなわち、先ず以て第一義的に「十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおけるわれわれの実存という場所において、われわれの信仰より以前にも、信仰なしでも、‥‥‥不信仰に抗しても、われわれのために生きて、われわれを支配し、われわれを愛し給うイエス・キリスト」に対して「責任的応答をなすべきである」とは考えずに、それ故に「実存主義への特別な拘束力が生じるべきである」とは考えずに、まさに先ず以て第一義的に「現代人」の「教養人」、知識人としての「同時代の人たちの思考の前提に対して、そこから形成された理解の基準に対して」「責任的応答をなすべきである」(『ルドルフ・ブルトマン』)と考え、それ故に「『自然』神学」の段階で停滞し、「人間学の後追い知識」としての「<前期>ハイデッガーの哲学原理に基づく<絶対的>規準としての先行的理解と解釈学的原理」に依拠したブルトマン、ブルトマン学派では〕、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる〔類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって恣意的独断的に対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」としての〕存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神を見失うことではなかろうか』」(木田元『ハイデッガーの思想』)――このように、ハイデッガー自身が批判しているように、まさにそうである。これら「キリスト教の問題を明確に提起した」キリスト教に対する批判は、「『自然』神学」、「『自然』的な」信仰、神学、教会の宣教における宗教としてのキリスト教に対する根本的包括的な原理的な、客観的な正当性と妥当性とをもった批判である。バルトも、カール・バルト著作集3』「ルドルフ・ブルトマンで、次のように述べている――(中略)〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」――〕この新約聖書の使信がまさにイエスキリストについての使信として神と人間との間に起った出来事を内容としていることが確かでありまたこの使信がその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」が〕、その形式においてこの出来事についての人間による証言であることも確かであるかぎりわれわれがこの使信の人間学的内容にも問いかけることは可能でありまたそうしなければならないことは明瞭である。(中略)〔しかし、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「聖礼典的な実在」、「キリスト教に固有な」類と歴史性(Ⅰコリント310-11およびエフェソ214以下)における<第一次的な>「最初の起源的な支配的な<しるし>として、〕他のすべてのものを基礎づけ制約し支配する「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である〕キリストの出来事としてのキリストの出来事この証言から取り去って〔すなわち、その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書証言から「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるキリストの出来事としてのキリストの出来事を取り去って〕――〔それ故に〕その結果この証言をそこでは〔「わがまま勝手に」恣意的独断的に〕第二次的なものに形式変換し転釈するという場合〔換言すれば、第一義化され価値化された人間学そのものである「前期ハイデッガーの哲学原理に基づく<絶対的>基準としての先行的理解と解釈学的原理」によって対象化され客体化されたブルトマンの観念的生産物である彼自身の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」を<第一次的なもの>に形式変換し転釈するという場合、それ故にまた<第二次的なもの>に形式変換され転釈されたところの起源的な第一の形態の神言葉であるキリストの出来事としてのキリストの出来事を取り去った第二の形態の神の言葉である聖書証言をブルトマンが「わがまま勝手に」恣意的独断的に第一義化し価値化した人間学そのものである「前期ハイデッガーの哲学原理に基づく<絶対的>基準としての先行的理解と解釈学的原理」によって対象化し客体化したに過ぎないブルトマン自身の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」を<第一次的なもの>にして、その「<第一次的なもの>に従事することにおいてのみ真であり・重要であるものに形式変換し転釈するという場合」〕、その使信をその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」を〕、ゆがめ切りちぢめることにならざるをえない……」。

 

 バルトは、「聖霊の教義について正確さを獲得するために」、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)としてのニカイア・コンスタンティノポリス信条に依拠しながら次のように述べている

われわれは聖霊主を信ず」――これは、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」(「起源」)としての「<父>と父が子として自分を自分から区別した父を根源とする<子>を根源とする」「父ト子ヨリ出ズル御霊聖霊の神性の定義である」。したがって、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての「神は、……聖霊なる神である」、「霊は父および子と同様に、……分離し難い単一性の中で〔「失われない単一性」の中で〕、主であるひとりの主権的な神的主体である」。それからまた聖霊は「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における「第三の存在の仕方」(「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)――すなわち、「父なる神の存在の仕方と子なる神の存在の仕方の間の共通的なもの」、「父と子の相互的な愛の霊」、「父なる神と子なる神の愛の霊」、「伝達、愛、賜物の授与行為」であるしたがって、「聖霊は他の二つと並んで存在する第三の霊的主体ではなく第三の我ではなく、第三の主ではなく」、「自己自身である神」(「ご自身の中での神)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、すなわち「ひとりの神的主体あるいは主の」、「われわれための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における「第三の存在の仕方である」。「聖霊は、〔その第三の存在の仕方として、〕父と子の交わりにおける、父は子の父、言葉の語り手であり、子は父の子、語り手の言葉であるところの行為〔・性質・働き・業・行動〕」、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事である。「聖霊は、〔神の恵みの〕賜物ヲ与エル主である」。何故ならば、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」(「起源」)としての「<父>と父が子として自分を自分から区別した父を根源とする<子>とを根源とする」「聖霊は、父および子の霊として、与エ主ノ賜物であるからである」。シタガッテ、(聖霊ハ永遠の賜物ダッタノデアル」。このような訳で、「聖霊は、啓示において救済主としてわれわれに働きかけ給う主であり、現実にわれわれを自由にし、現実に神の子供とし、教会をみ言葉の奉仕へと向かわせる主であり、教会に、神の言葉を語るべく言葉を現実に与え給う主である」。

 

 聖霊はみ子の霊でありそれ故子たる身分を授ける霊であることからしてわれわれは神のその都度の自由な恵みに神的決断による聖霊を受けることによってイエスキリストが神の子であるという概念を根拠として神の子供世つぎ神の家族であり、『アバ父よと呼ぶ(ローマ815、ガラテヤ45ことができる」。また、「和解者が神の子であるが故に……和解啓示の受領者たちはイエスキリスト神の永遠の子との交わりにおいて」、受領者と授与者との無限の質的差異を固守するという<方式>の下において、「神の子供なのである」。また、「聖霊は概念の近代的意味での第三のペルソナとして理解されることは決してできない〔すなわち、「他との関係なしにそれ自身で存在している近代的な個体」、「人格」として理解されることは決してできない〕」、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事として、「第三の存在の仕方〔性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕、第三の存在の様態として理解されるべきである」。

 

二 永遠なる霊

われわれは生命の与え主なる聖霊を信ずの命題も、〔()と同様に、〕聖霊の神性の定義である」。この命題は、「第二条におけるスベテノモノハ主ニヨリテ造ラレタリに相応しつつ、聖霊は父(と子)とともに創造の主体であることを指し示すことによって、聖霊が神性を本質としていることを教えている〔すなわち、聖霊が「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質としていることを教えている〕」。このような訳で、聖霊は救済主であるだけでなく和解の最後的完成が救済〔終末、完成、復活されたキリストの再臨〕であるという意味で救済が和解と解消し難い相関関係にある限り聖霊は子とともに子の霊としてまた和解者であり給うまた父および子とともに創造主なる神でもあり給う」。何故ならば、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の第三の存在の仕方、すなわち「啓示されてあること」・「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事に関わる聖霊は、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質と「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての聖霊なる神であるからであるこの聖霊の現臨と働きは、ただ啓示の基礎の上にだけまた信仰の中でだけ認識され告白されることができる〔すなわち、「聖霊の現臨と働き」は、ただ神のその都度の自由な恵みの神的決断による、客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」) に基づいて贈り与えられる、信仰の認識として神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事の中でだけ認識され告白されることができる〕」。

 

われわれは父と子よりいずる方聖霊を信ず」――この命題は」、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」(「起源」)としての「<父>と父が子として自分を自分から区別した父を根源とする<子>」とを「根源」とする「父ト子ヨリ出ズル御霊聖霊はいかなる被造物でもない神から出てくるところのものそれは再び神であることができるだけであるということを意味している」。言い換えれば、「父ト子ヨリ出ズル御霊、聖霊、「神の本質の〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の本質の〕、一つの存在の仕方でのみあり得る〔すなわち、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における「第三の存在の仕方」、換言すれば「啓示されてあること」・「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事でのみあり得る〕、ということを意味している」。したがって、「決して子の啓示と並んで霊の特別な第二の啓示があるのではない」。「イエスキリストにおけるひとつの啓示の中で子あるいは神の言葉は、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方において〕神が人間に向かって自分自身をさし出すという要素〔すなわち、客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」、客観的な「存在的な<必然性>」〕を代表し聖霊は神が人間によってうけとられ自分のものとされるという要素〔すなわち、その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」、主観的な「認識的な<必然性>」〕を代表している」。したがって、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の第二の存在の仕方と第三の存在の仕方の差異性についての認識と自覚を欠如させたところの、「ヘルマスの牧者が聖霊を神の子と呼んでいる見解は、全く孤立した変わった見解である」。また、「『自然』神学」の段階における思惟と語りにおいて、「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」を語ったアウグスティヌスは、「存在の類比」において、「人間の魂の中での意志あるいは愛が思惟に関係し、その思惟から意志が出てくるように、発出スルように、霊は子からでてくると述べた」。すなわち、「アウグスティヌスは、認識から生じてくる意志としての聖霊を論じた。そして、アウグスティヌスは、ワタシハ知ラナイという言い方で、論議ニヨラズ、祈リヲモッテ閉じようとした」。このアウグスティヌスに対して、バルトは、「われわれは〔アウグスティヌスの〕三位一体ノ像についての理論全体を受け入れることができなかったように、霊に関しての問題についても、また三位一体ノ像……の理論全体によっては答えられない」と述べている。したがって、アウグスティヌスとは違って「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」を語るバルトは、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の贈り与えられる啓示認識(啓示信仰)に依拠した信仰の類比を通して、次のように述べている――「ワレワレハ知ラナイ」、と。すなわち、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての「神に敵対し神に服従しない……、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を全く持ってはいない」ところの、「全く不信仰で罪に穢れた」ところの、生来的な自然的なわれわれ人間は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「啓示の秘義を、神の秘義を、父、子、聖霊を定義することはできない、それらを相互に限界づけることはできない」。「われわれはただ、〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方、「啓示」・「語り手の言葉」・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事である〕啓示の中で自分自身を相互に限界づけている三つのものが登場してくるということを確立しうるだけである」。すなわち、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」・「和解者」としての子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての「啓示されてあること」・「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>が「登場してくるということを確立しうるだけである」、「われわれは神的な出ることと存在の仕方の事実を確立することができるだけである」、「神の啓示の中で登場してくるもの、それは、……父、子、聖霊である」。「聖霊の出ずることは父と子からの聖霊の出ずることである」。したがってこの出ずること息を吹きかけるというこの概念は人が本質的に表現し得ないこと人が彼の言葉でもって到達し得ないことを表現しようとする一つの試みである」、「どのように神の子が生まれるのであるか、どのように神のことばは語られるのであるか、われわれはそれを知らない。したがって、われわれの認識は、ただ、事実の承認あるいは受認であり得るのみである」。この「事実の承認あるいは受認」には、神のその都度の自由な恵みの神的決断による、あの客観的な「存在的な<必然性>」とその主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」とその主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」の出来事を必要とする。「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」「まことの神」(神の顕現)して「まことの人間」(神の隠蔽、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの名」)――この「イエス・キリストにおける啓示自身」が、その「啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っていることからして――すなわち、あの客観的な「存在的な<必然性>」とその主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」とその主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」を持っていることからして、われわれは、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての「聖書」を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、区別を包括した単一性において、先ず以て「第二の問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)と関わるのではなく、先ず以てその第二の問題を包括したところの第一の問題である神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)と関わらなければならない。言い換えれば、われわれは、<先ず以て>「第二の問題」を包括したところの「第一の問題であるところの、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」・「和解者」としての子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者としての神的愛に基づく父と子の交わりである聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における神の「第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわちイエス・キリストにおける「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っていることからして、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の第二の存在の仕方」、「啓示ないし和解の実在そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」「まことの神(神の顕現)にしてまことの人間(神の隠蔽、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの名」)イエスキリスト自身と関わらなければならない、それ故に具体的には「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「その最初の直接な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているイエスキリスト自身と関わらなければならない

 

 さて、「<前もってそれ自身の中での神的存在の仕方の実在についての命題全体は〔すなわち、<前もって>「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の神的存在の仕方の実在についての命題全体は〕」、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における「第二の存在の仕方」である「啓示の中での神的存在の仕方の実在についての命題を確証するもの……強調するもの……あるいは内容的に……欠くことのできない前提として明らかとなる」。したがって、「三位一体の命題は、聖書の証言に従って、〔その外在的本質に関わる〕神の啓示における神の実在の中でわれわれに出会うところの神の存在の仕方の相違性〔すなわち、「失われない差異性」〕<>〔その内在的本質に関わる〕単一性に〔すなわち、「失われない単一性」に〕、あくまでもとどまらなければならないということを意味している」。したがってまた、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書において、それ故にその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の宣教において「神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。この啓示が、教会の宣教の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、啓示の認識原理である。したがって、教会の宣教の批判と訂正は、常にこの三位一体論に即して行わなければならない。何故ならば、この三位一体論を啓示認識の原理にしない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論に埋没していくほかないからである」。

 

 われわれは父と子より出ずる方聖霊を信ずにおける父ト子ヨリの表現は父と子の間の交わりの認識の表現である」。何故ならば、「ただ父の霊でのみあるのならば、その時には、神と人間の間の霊の交わりは、客観的な内容と基礎を喪失してしまう」ことになるからである。すなわち、「父ト子ヨリの表現は、父と子の間の交わりの認識の表現でない」ならば、その時、神と人間の間の霊の交わりは、客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」を喪失してしまうことになるからである。「聖霊は愛でありその愛は父および子という神のこれら二つの存在の仕方の間の関係の本質である」。「父と子は神的愛に基づく完全な共存的な交わりの中で聖霊は父は子の父言葉の語り手であり子は父の子語り手の言葉であるところの行為〔・働き・業・行動・性質、外在的本質、第三の存在の仕方、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕である」。「ここに神は愛愛は神であることの根拠がある愛は神にとって最高の法則であり最後的な実在である」。この交わりの認識は父と子の神的愛の交わりが啓示の中で〔客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」、客観的な「存在的な<必然性>」の中で〕聖霊を通して〔その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」、主観的な「認識的な<必然性>」を通して〕つくられるところの神の人間との間の交わりの根拠である」。客観的なイエスキリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の中での主観的側面としての聖霊の注ぎによる主観的な信仰の出来事を通して神ご自身の中での……交わりすなわち神の永遠の愛が認識されるようになる」、すなわちそれが人間論的な自然的人間のそれであれ、教会論的なキリスト教的人間のそれであれ、誰のそれであれ、生来的な自然的な「すべての理性を凌駕した啓示の秘義として、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)」における「第三の存在の仕方」である〕聖霊の存在の仕方の中でのひとりの神として〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」として〕認識されるようになる」。このような訳で、「聖霊は、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における「第二の存在の仕方」である〕啓示の中でのように、〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としてのその〕永遠においても父と子の愛の霊でありそれ故に父ト子ヨリ出デ』である」。したがって、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)である「霊の働き〔・業・行為・行動・性質〕の単一性は〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての「失われない単一性」は〕、三つの存在の仕方の交わりとして〔すなわち、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>として〕、理解されるべきである」。このように、「子と霊は父とともにひとつの本質である。神的本質のこの単一性の中で、子は父から、霊は父と子からであり、他方、父は自分自身以外の何ものからでもない。神は、永遠から自分自身の中で父でありつつ、永遠から自分自身を子として生み出す。神は、永遠から子でありつつ、永遠から、父としてご自身から生まれ出る。まさにこの永遠的な自分自身を生み出し自分自身から生まれ出ることの中で彼は自分自身を三度目に、……聖霊として、……神を自分自身の中で一つにす……愛として自分自身をおく神は子を生み出す父でありつつ愛の霊を生じさせる」。「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」(「起源」)としての「<父>と父が子として自分を自分から区別した父を根源とする<子>」を「根源」とする「父ト子ヨリ出ズル御霊聖霊はいかなる被造物でもない神から出てくるところのものそれは再び神であることができるだけである」、それからこの神は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」において(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>において)「現にあるところの方であり給う」このことは、「神の三つの存在の仕方の間の循環、完全な、……三位相互<内在性>を、すなわちひとりの神の存在の仕方としての存在の仕方の三位相互<内在性>を意味している」。言い換えれば、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」(「起源」)としての「<父>は、子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源である」、それ故に「その区別された<子>は、父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は、父と子が根源である」。それからこの神は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の第二の存在の仕方である「子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する」。したがって、この神の内在的本質である「失われない単一性」からすれば、「父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある」。

 

 第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としてのキリストにあっての「神は、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」において〕他者に向かっている。神は、〔その内在的本質および外在的本質からして〕他者なしであろうと欲せず、ただ、自分を他者とともに、いや、他者の中に持ちつつ、自分自身をもとうと欲し給う」。この「キリストにあっての神は、子とともに霊を、愛を、生じさせ、そのようにして自分自身の中で霊、愛である〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」は、子とともに霊を、愛を、生じさせ、そのようにして自分自身の中で霊、愛である〕、愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在であって、その逆ではない」。それからこの神は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」において「現にあるところの方であり給う」。

 

 そのような訳で、「父ト子ヨリ出ズル御霊聖霊の定義は父と子からの霊の二重の起源を意味しているのではない」、また処女降誕の教義は、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの名」、〕人間イエスは、〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「根源」(「起源」)としての「父が、子として自分を自分から区別した父を根源とする」〕神の子として、いかなる父をももたない(……いかなる母ももたない)ということを、言っているまたキリストの降誕において聖霊に帰せられているところのことは、処女マリアの中での人間存在〔すなわち、神の第二の存在の仕方における言葉の受肉である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの名」〕が、〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的あって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕神との単一性へ取り上げられるということである」。「霊のこの働きは神の子供たちにおける霊の働きにとって、<原型的なものである」。「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の第二の存在の仕方、すなわち子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、客観的な「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)――この「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)に関わる聖霊は啓示の中で神と人間創造主と被造物聖なるものと罪人を彼らが父と子供となるよう結びつけるように、……〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的あって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての聖霊はご自身の中で父を子と子を父と結びつけるところの交わり愛である」。この「神の第三の存在の仕方として、聖霊、愛が存在するということ、そのことを父と子は、共通にもっている」。

 

()われわれは、『父と子とともにおがみあがめられる聖霊を信ず」――この最後の信条の条項も聖霊の神性を定義している」。この条項は、「父がまた子がひとりの主であるようにまた霊も、〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的あって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」として〕一人の主であるという第一の条項へと立ち帰らせる」。したがって、「この条項の<ともに>は『ならんで』という意味ではない。すなわち、『とともに同時に』(中略)……父と子と『全く同じように』という意味である」。「聖霊は啓示において神と人間の交わりの実現である〔あくまでも、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)に基づいて、終末論的限界の下で、人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事は贈り与えられる〕」。詳しく言えば、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的あって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「聖霊」の性質・働き・業・行為・行動は、換言すれば「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の「第三の存在の仕方」は、神の「第二の存在の仕方」である客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)<と>第三の存在の仕方であるその「啓示の出来事の中での主観的な側面」としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)の関係と構造(秩序性)<と>その主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性)に基づいた、神と人間の交わりの実現である」。したがって、「聖霊はすべての造られた霊どもと違っている」。したがってまた、「聖霊は、〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、〕人間に対し内在しつつも同時に人間に対して超越しあくまで超越し続けまた常に繰り返し超越するところのものである」――「聖霊は、人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、徹頭徹尾聖霊によって更新された人間の理性性も聖霊と同一ではない(『教義学要綱』)。「義認と聖化はわれわれに父と子とともにおがみあがめられるべき聖霊、〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的あって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕神的主体の行為である」。したがって、「それはわれわれの救いとなる」、ちょうど「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的あって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「キリストの永遠のまことの神性啓示と和解を生じさせるように

 

(文責:豊田忠義)