カールバルト『教会教義学 神の言葉Ⅰ/2 神の啓示<上> 三位一体の神 十一節 子なる神(イエスキリスト自身)について

 

 

 

十一節 子なる神(イエスキリスト自身)について、バルトは、次のような定式化を行っている。 

 一人の神は聖書によれば和解主として換言すればわれわれの彼に対する敵意のまっただ中において主としてご自身を啓示し給う彼はそのような方としてわれわれのところに来られた神の子あるいはわれわれに対して語られた神の言葉である何故ならば彼は前もってご自身の中において父なる神の子としてあるいは言葉としてそのような方であるからである 

 

この定式は、次のように理解することができる。 

 一人の神は――すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、ここにおいては、われわれは「神の不把握性」の下にある)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)は、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書によれば」、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質としている「三位一体の神」の「根源」(起源)である「父は、子として自分を自分から区別するし、自己啓示する神として自分自身が根源である」ことからして、「その区別された子は、父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は父と子が根源である」という仕方で、子として和解主として換言すればわれわれの彼に対する敵意のまっただ中において主としてご自身を啓示し給う」。何故ならば、われわれは、「肉であって、それ故に神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持っていない」し、生来的な自然的な「『自分の理性や、(感性、悟性、意志、想像等の)力によっては』――全く信じることができない」からである。したがって、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神は、子としてのイエス・キリスト自身における神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)としての客観的な「存在的な<必然性>」<と>その「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とする、換言すれば神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」を前提条件とする、客観的な「存在的な<ラチオ性>」(「根拠」性、「原因」性、「理由」性、「理性」性)――すなわち、啓示者であり言葉の語り手である父の言葉としての起源的な第一の形態の神の言葉、子としてのイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)の関係と構造(秩序性)<と>その中での主観的側面である主観的な「認識的な<ラチオ性>」(「根拠」性、「原因」性、「理由」性、「理性」性)――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性という「総体的構造」(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)を贈り与えるという仕方で、「ご自身を啓示し給う」。彼はそのような方としてわれわれのところに来られた神の子あるいはわれわれに対して語られた神の言葉である」。「何故ならば彼は、<前もってご自身の中において>、父なる神の子〔何故ならば、彼は、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」) としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「根源」(起源)である「父は、子として自分を自分から区別するし、自己啓示する神として自分自身が根源である」ことからして、「その区別された子は、父が根源である」からである。「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」は「失われない単一性」(区別を包括した単一性)・神性・永遠性を内在的本質としていることからして、この「神は、子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する」し、「父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である」し、「同様に、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある」〕としてあるいは父なる神の言葉(啓示者であり言葉の語り手である父なる神の言葉、神の啓示)としてそのような方であるからである」。それからまた、この神は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉(換言すれば、起源的な第一の形態の神の言葉)」・「和解者」としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父(「父は子の父、言葉の語り手」)と子(「子は父の子、語り手の言葉」)の交わりである「啓示されてあること」・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>において、「神は現にあるところの方であり給う」。 

 

 さて、バルトは、次のように述べている――われわれは、「福音主義的な聖書原理をその客観的な側面からして」、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方、すなわち「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「直接的な絶対的な内容的なイエスキリストのまことの神性とまことの人間性」――すなわち権威と自由」によって賦与され装備された権威と自由」を持っているその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(すなわち、イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たち」の「イエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての第二の形態の神の言葉である「聖書の権威と自由に基礎づけられ限界づけられている」ところの、徹頭徹尾間接的相対的形式的な権威〔すなわち、全く<人間的な>教育的権威〕と自由」を持っている全く人間的な教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の中での権威〔すなわち、全く<人間的な>教育的権威についての教説の中で理解しようと努めなければならなかった」。しかし、「その後福音主義的な聖書原理をその主観的な側面からして」、「直接的な絶対的な内容的なイエスキリストのまことの神性とまことの人間性」――すなわち「権威と自由によって賦与され装備された「権威と自由を持っているその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である「聖書の権威と自由に基礎づけられ限界づけられている」ところの、徹頭徹尾間接的相対的形式的な権威〔すなわち、全く<人間的な>教育的権威〕と自由を持っている全く人間的な教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の中での自由〔すなわち、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との<全体性>における自由〕についての教説の中で理解しようと努めなければならなかった」。何故ならば、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(「啓示の<しるし>」)としての第二の形態の神の言葉である「啓示との<間接的同一性>〔区別を包括した同一性〕」において現存している聖書を、自らの思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「基準」・「標準」とする(聖書を媒介・反復することを通した)その間接性こそが主ご自身を通して設けられ主の甦えりを通して力を奮う」からである。バルトは、このような、第二の形態の神の言葉である聖書を媒介・反復することを通したところの、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト<と>第三の形態の神の言葉である教会(われわれすべての成員)との「間接的な関係性」(媒介的・反復的な関係性)のことを、「まことの直接性」、「まことの関係性と呼んだのである。「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を理解するということは、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質を問う問い」(「神の本質の問題」)を包括した「第一の問題」である「神の存在を問う問い」(「神の存在の問題」)を要求するイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、そしてその「啓示自身が啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っていることからして、客観的な「存在的な<必然性>」――すなわち、木を見て森を見ないという仕方ではなく、換言すればただその一面だけを形而上学的に切り取って全体化し理解するという仕方ではなく、区別を包括した単一性において理解するという仕方での、換言すれば「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」をその<全体性>おいて理解するという仕方での、客観的なその「(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>主観的な「認識的な<必然性>」――すなわち、その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」を前提条件とするところの(換言すれば、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところの)、客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」)である「イエス・キリスト自身」を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の、直接的な、第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての「啓示との<間接的同一性>」(啓示との区別を包括した同一性)において存在している第二の形態の神の言葉(「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である「聖書」、それから「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「標準」とする教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である「教会の宣教<と>主観的な「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが「聖霊によって更新された人間の理性性」という、この<総体的構造>の中で理解するということである。それぞれの時代、それぞれの世紀、その時代と現実に強いられたところで存在し思惟し語り行動する第三の形態の神の言葉である教会(そのすべての成員)は、あくまでも神のその都度の自由な恵みの神的決断によるイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、絶えず繰り返し第二の形態の神の言葉である聖書を媒介反復することを通して聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神に、「啓示ないし和解の実在そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエスキリスト自身に出会い関わるのであって、それ以外のところにおいて出会い関わるのではない。「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われに差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方である「まさにイエス・キリストにおける神の自己啓示の中でこそまさにイエスキリストの中でこそ隠れた神は〔何故ならば、この「三位一体の神」は、「三重のわれ、三重の主体、三神論、三重の対象の意味で三つの人格性が存在しているということではない」から、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれは神の不把握性の下にある)「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする神だからである〕、ご自身を把握できるものとし給うた」。「しかしそのことは決して直接的にではなく、<間接的にである」。イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>における「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、<しるしの中においてである」――このように、「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。「自己自身である神」(ご自身の中での神)としての「三位一体の神」のその内在的本質である神性が肉となったのではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方(外在的本質)における「<言葉が肉となった>」――「これがすべてのしるしの最初の起源的な支配的なしるしである」。言い換えれば、それは、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化されたに過ぎない人間的自然(人間の観念的生産物)としてのその人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」では決してなく、もっと包括的に言えば神とは異なる「実在全体」――すなわち、宇宙を含めた天然自然としての外界、自然の一部としての人間の自己身体、性としての他者身体、個体的自己としての全人間の身体(肉体)と身体を座とする精神(意識)を介した普遍的で実践的な全自然(自然の一部としての人間の自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた天然自然としての外界)との相互規定的な対象的活動によって生み出されるところの人間化された自然としての人間的自然である人間の物質的および観念的な諸生産物(マルクス『経済学・哲学草稿』)では決してなく、徹頭徹尾神の側の真実としてある、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」の第二の存在の仕方における言葉の受肉としての<「存在者」>〔すなわち、「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」としての「ナザレのイエスという人間の歴史的形態としてのただイエスキリストのだけ」〕である――この「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」については、Jimdofreeの私のホームページ(その1)<5.「神の隠蔽」としての「身をかがめる」ということ>を参照されたし。そして、その「最初の、起源的な、支配的な<しるし>に基づいて」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的な<しるし>が存在するのである」。先ず以て「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエスキリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書が、「啓示との<間接的同一性>」(啓示との区別を包括した同一性)においてその「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>〔「神の業の<衣>」、「殻」、「特定ノ外形」〕」として客観的に存在している、それから「教会に宣教を義務づけている」第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉である教会の宣教「啓示の<しるし>」の<しるし>として客観的可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「ただイエス・キリストの<名>だけ」)――このイエスキリストと地上における可視的なみ国が客観的に可視的に存在している。「これこそ神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握ししたがってまた神について語ることができる偉大な可能性である」。イエス・キリストにおける「神の自己啓示によれば、神は、神とは異なる実在の内部で、神の現実存在を自ら証明する自由を持ち給う。よく注意せよ。それは、神の現実存在を、それ故に神とは異なる実在全体」が対象化し客体化した「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」の存在では決してなく、徹頭徹尾「自ら証明する自由における存在者の存在」――すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神は、「神の現実存在を自ら証明する自由を持ち給う」。 

 

さて、「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)〔言い換えれば、〕信じる者は自分が――つまり〔生来的な自然的な〕自分の理性や力によっては〔すなわち、感性力・悟性力・意志力・想像力・自然を内面の原理とする禅的修行等によっては〕』――全く信じることができないことを知っておりそれを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。イエス・キリストにおける啓示ないし和解の出来事の内容、「生来人間は神の恵みに敵対し神の恵みによって生きようとしないが故にこのことこそ第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であったという点にある(『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」)。『福音と律法』では、次のように述べられている――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうかわれわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて〔復活に包括された死(十字架)において〕死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三二二ガラテヤ二一六等のイエスキリスト信仰 〔すなわち、『イエス・キリスト<の>信仰』の<属格>は〕、明らかに主格的属格>〔「イエス・キリスト<>信ずる信仰」〕として理解されるべきものである)」。このことが、「福音と律法の<真理性>における福音の内容」である。したがって、このことは、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間からは何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さずとも、〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、〕神であることを廃めずに、何ら価値や力や資格もない罪によって暗くなり・破れた姿のわれわれ人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬように、しかも〔包括的に言えば、「『自然』神学」の<立場>における思惟と語りにおいて〕混淆〔・共働・協働、神人協力〕されぬように、統一し給うたということを内容としている」。「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての「神の永遠の御言葉」が、その内在的本質である「神性の受肉」ではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」の第二の存在の仕方における「言葉の受肉において肉となり給うた」ところの「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」――この「イエス・キリストにおいては、神と人間が、しかしまた人間とその隣人が平和的なのであり、敵としてではなく、忠実な同伴者、仲間として、共にあるのである、この世と神との和解、人間相互間の和解を直接その内に包含している和解、神ご自身によって、イエス・キリストの歴史において、その生涯と死において、すでに完成され、死人からの復活においてすでに啓示されている和解」、それ故に「われわれ人間によって、はじめて完成されなければならないような和解ではなく」、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、それ故に「成就と執行、永遠的実在としてある」、「神ご自身によって確立された和解そのものであり」、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済そのものである「イエス・キリストにおいて、平和〔区別を包括した同一性において、包括的な救済概念は平和の概念と同じである〕は、神ご自身が世界史のまっただ中に創造し見えるものとして下さった現実性である。この贈り物はただ、〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、〕われわれがこれを受けとることを待っている 

 

 マタイ266以下、マルコ143以下にある、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」の第二の存在の仕方(啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)におけるイエス・キリストが、「純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」「一人の女」に「なぜ、こんな香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」と、<往還>思想を持たないまま、ただ「自己欺瞞に満ちた市民的観点、市民的常識」からだけ、ただ<往相的な>観点からだけ「憤慨した」弟子たちに対して、「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と述べたそのイエス・キリストの言葉からすれば、個体的自己としての全人間、世界全体の幸福(救済、平和)<と>個人の幸福(救済、平和)とを往還させた宮沢賢治の<往還>思想に基づく「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とか、「全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならない」という「『よだかの星』の主題」とかは意義深い思惟と語りである。また、「聖道の慈悲」(「往相浄土」)は「困窮する者を不憫におもい、悲しみ、助けてやることである。けれども思うように助けおおせることは、きわめて稀なことである」――この往相過程における救済、平和は、緊急的過渡的相対的部分的な救済、平和でしかないが故に、換言すれば自分が現に身近に接している「食物の飢え等で困窮している具体的な一人の人や一部の人を施しや奉仕によって」緊急的過渡的相対的部分的に救済しようとするだけでは究極的包括的総体的永遠的な救済、平和とはならないが故に、「念仏をとなえて、いちずに仏に成って、大慈大悲心をもって思うがまま自在に、衆生をたすけ益することを意味するはずである」ところの「浄土の慈悲」(還相浄土)において、すなわちこの還相過程において、阿弥陀仏の側の真実としてのみある救済、平和に信頼し固執すれば、一切の衆生の究極的包括的総体的永遠的な救済は可能となるだろうという親鸞の<往還>思想に基づく思惟と語りも意義深いものである。バルトも、『カール・バルト教会教義学 和解論 Ⅰ/1 和解論の対象と問題』で、次のように述べている――「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題ではあるが、イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」、と。すなわち、それは、先でも述べたように、それぞれの時代と現実に強いられたところで現存する第三の形態の神の言葉である教会は、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の「総体的構造」に基づいた「神への愛」<と>「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――換言すれば、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている純粋な教えとしての「キリストの福音〔平和、救済〕を、全世界としての教会自身と世の<すべての人々>が、現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え」という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指していくということである(なお、「神への愛」<と>「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」については後述する)。また、バルトは、『カール・バルト著作集4』「感謝と表敬――デンマークとの接触」および「キルケゴールと神学者」で、次のように述べている――「神の自由な恵みの福音を述べ伝え、説き明かすことが問題であるとすれば、神の民、教団、教会、その奉仕と宣教の任務、その政治的・社会的課題を後景へと退けて、<単独者>と<個人救済主義>を強調するキルケゴールの言説をそのまま受け入れることはできなかった」。なお、ここでいうバルトにおける社会的な政治的な実践は、「説教」(言葉)と「行為」を二元論的に分離し対立させたそれではなく、それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、「かつて語った〔聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストの福音についての〕説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから〔自然に、必然的に〕実践に、決断に、行動になって行った」という水準のものであった、換言すればある状況下において、その状況に抗するそれとして、おのずから(自然に、必然的に)実践へと、決断へと、行動へと連れ出していったという水準のものであった (『カール・バルトの生涯』)。例えば貧困格差の問題は大多数の被支配としての一般国民・一般市民・一般大衆の責任ではなくて、本来的に国家支配上層(具体的には、擬制民主主義に過ぎない選挙制度を介した議会制民主主義において成立している政府・政権)の責任であるが、近代以降の現在においても、自国や他国や国家間において、貧困格差の問題は現存している。マルクスは、『ユダヤ人問題によせて』で、「問題の定式化(問題を明確に提起すること)は、その問題の解決である」と述べているが、宮沢賢治も親鸞もバルトも、自らの立場において、その「問題を明確に提起したのである」。 

 

そのような訳で、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、戦争の元凶である民族国家から自覚的に対象的になって距離を取れていない平和主義者であれ、大学社会の学者であれ、評論家であれ、知識人であれ、誰であれ、われわれ人間が、現存する世界が経済の世界性と自国の利害の保持・拡大(例えば、欧米諸国における自国の利害の保持・拡大、その軍事同盟であるNATOの「東方拡大」)を最優先する戦争の元凶である民族国家の一国性を単位として動いている中で、常に、一部国家支配上層の意思によって巨大で強力な国軍(国家的軍事組織)を動員できる民族国家を前提として思惟し語る限り、永久に戦争は廃絶されないから、それ故に平和は永久に訪れない。もっと言えば、平和の問題、それ故に戦争廃絶の問題、核廃絶の問題、すなわち包括的に言えば戦争の元凶である民族国家を無化する「問題を明確に提起する」ことが必要であるにも拘らず、様々な学者や知識人も評論家も、西側諸国や東側諸国や国連も、諸政治的集団も、諸教会も、諸宗教も、いつも民族国家を前提として思惟し語っているから、いつまでも民族国家を前提として思惟し語り続けているから、永久に戦争は廃絶されないし、それ故に永久に平和は訪れない。『平和に関するバルトの書簡』によれば、そうした中で、人間論的な自然的な人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれが、特に第三の形態の神の言葉である教会(われわれすべての成員)が、「イエス・キリストにおいて平和〔区別を包括した同一性において、包括的な救済概念は平和の概念と同じである〕は神ご自身が世界史のまっただ中に創造し見えるものとして下さった現実性であり」、この「贈り物はただ、〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、〕われわれがこれを受けとることを待っている」にも拘らず、イエス・キリストにおけるこの「事実に向かって、眼と耳を閉ざして生きているということが、悲惨なのである」。ローマ・カトリックもそうであるが、私の所属している日本キリスト教団も、徹頭徹尾第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準としなければならないにも拘らず、自らの思惟と語りを徹頭徹尾聖書に依拠するというよりも、現存する戦争の元凶である民族国家を前提として、それ故にその国家の言語である法的な政策的な言語に依拠して思惟し語っている、その国家の言語である法的な政策的な言語に依拠して語り続けている、それ故に軽薄な思惟と語りを続けている。ヘーゲルは、「観念論」の立場において、<観念的な>法的政治的国家<共同性>に「価値」を置いたが、それは間違っているのであって、本質的に、「価値」は、そのような国家を疎外(外化)した「こちら側」、すなわち<現実的な>市民社会の中で<具体的に>自己資質、職業、家族、喜怒哀楽の感情、思想、信条、意志、構想をもって生き生活している「価値」としての<個体的自己>としての人間の側にあるにも拘らず、「価値」が、いつも、「向こう側」、すなわち意味としての<観念的な>法的政治的国家<共同性>の側に移行してしまって、換言すれば「価値」を、いつも、「向こう側」、すなわち意味としての<観念的な>法的政治的国家<共同性>の側に移行させてしまって、自己還帰させることができないというところに、それ故に完全に自由ではないというところに、それ故にただ恣意的にだけしか自由ではないというところに、問題があるのである。この時、人間は、<現実的な>社会の中で自由でなくても、<観念的な>共同性を本質とする法的政治的国家は<自由>主義国家(完成された近代国家)であり得る、それ故にこの時<現実的な>社会の中ではただ恣意的にだけ自由であり得る、この時<現実的な>経済的社会的な不平等があっても、<観念的な>法的政治的国家において法的には平等であり得る、それ故にまたそこでは人間の思惟および現実的生活において、天上の<観念的な>非日常的生活(法的政治的共同性における生活)と地上の<現実的な>日常的生活(市民社会的生活、個別的私的現実的生活)との二重の生活が強いられる、すなわち具体的に私人として、一方で、「私利、私意」に基づく利己主義的な私的他者との対立および争いの生活、利害共同性との対立および争いの生活<と>、他方で、あたかもそうした対立および争いのない<観念的な>法的政治的共同性によって統一された公的共同性の一員(公民)としての生活との二重の生活が強いられるこのことが、ご多分に漏れず、日本キリスト教団の指導層も全く理解でき得ていないのである。したがって、例えば平和を主張する場合も、いつも、戦争の元凶である民族国家を前提として思惟し語っている。この場合、永久に戦争は廃絶されず、それ故に永久に平和は訪れることはないのである。したがってまた、例えばJ・ハーバーマスは、「脱中心化された公共的意識」により百人百様の分裂と動態化を惹起させた西欧社会の中で、「近代主義的法概念の再構成によって、法制的な共同体の統括力の回復を試みようとした」、そのため憲法を法制的中枢とする法体系の中での、「生得的に有する自然権である自由と平等〔自己意識の対自性、理性としての個人、その主体的な関わり方〕と国民主権〔自己意識の対他性、意思における普遍妥当的な相互承認と相互制約による共同性〕との内的連関付け、すなわち討議によって産出されるコミュニケーション的権力を目指そうとした」が、その学業的な「ただ単なる知識」としての試みは、永久に成功する訳がないのである(『事実性と妥当性 上』) 

 

そのような訳で、われわれは、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて贈り与えられるところの啓示認識(啓示信仰)において徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、それ故に「成就と執行、永遠的実在としてある」、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>、すなわち神の恵み〔「神的な賜物……の総内容」〕である啓示者である父に関わる創造、啓示そのものである子に関わる和解、啓示されてあるものである聖霊に関わる救済」は、「確かにきわめて『超自然的な賜物』でもあるが、それを与える方自身が、すなわち三位一体の神ご自身が〔詳しく言えば、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」ご自身が〕、自分自身を賜物とすることによって、自分自身、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいて、神とは全く異なる〕他者との交わりの中に赴き、それ故に自分自身を他者に相対して愛する者として示し給う限り、先行してご自身と……被造物の間に直接交わりを造り出し、保ってゆくことであるから、そのような賜物である」――この「賜物」に、徹頭徹尾感謝をもって依拠する以外にはないのである神が恵みを与え給うことの原型は神の言葉の受肉である。すなわち、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方である「言葉の受肉であって」、その内在的な本質である「神性の受肉ではない」。このことは神と人間がイエスキリストにあって一つであることである」。ここでの「先行する神の恵みの秘義と本質」は、「二つのものが、(徹頭徹尾第一のものの意志と力を通して)直接一つのものとなり、神と人間の間のあの直接的な『平和』、パウロが『恵み』という言葉と関連させて、……その内容的な定義として、……しばしば名指すのを常としている『平和』が樹立される」という点にある。「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)として「恵み深い神と、〔「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」を外在的本質とする「われわれのための神」として〕恵み深くあり給う神との間には、中間的な領域としての恵みについてのグノーシス主義的に受け取られた考え方が介在することは許されない」。「ここではすべてのことは直接性に、すなわち神の存在と行為が、実際に神の本質的ナ独自ノ性質として、換言すれば三位一体の神ご自身として神ご自身であり〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」ご自身として神ご自身であり〕、自分自身を確証することによって〔うなわち、自分自身を自己認識・自己理解・自己規定することによって〕、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」において〕恵み深くあり給う方として、理解されるということによってもってかかっている」。「創造された世界における神の愛」(すなわち、「神が創造することを欲せられ、創造された起源的人間、世に対する神の愛」)と「われわれの世界におけるイエス・キリストの事実の中における神の愛」(すなわち、「神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった罪に落ちた人間、罪と死があるわれわれの世界、人間の失われた世に対する神の愛」)との間には差異がある。すなわち、後者における「和解ないし啓示」は、「創造の継続や創造の完成ではない」。後者における「和解ないし啓示」は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である「イエス・キリストの新しい神の業である」。それは、「神的な愛の力、和解の力である」。このような訳で、「イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の第二の存在の仕方において第二の神的行為を遂行したのである」。この「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における「神の存在の仕方の創造と和解のこの順序に、キリスト論的に、父〔啓示者・言葉の語り手・創造主〕と子〔啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解主〕の順序が対応しており、和解主としてのイエス・キリストは、創造主としての父に先行することはできないのである」。しかし、この「父と子の従属的な関係」は、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」という観点からは、その内在的本質におけるそれではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の起源的な第一の存在の仕方と神の第二の存在の仕方の差異性におけるそれを意味している。「創造が無からの創造であるように、和解は死人の甦りである。われわれは創造主なる神に生命を負うているように、和解主なる神に永遠の生命を負うている」。したがって、「創造された世に向かっての神が主〔創造主〕であるところでは」、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における「神の第一の存在の仕方〔様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、啓示者・言葉の語り手・創造者としての父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕について語られなければならない」、また「神に対する人間の敵意のまっただ中で神が主〔和解主〕でありところでは」、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における「神の第二の存在の仕方〔様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕について語られなければならない」。 

 

さて、われわれは、「神の自由な愛の行為の出来事としての神の存在を、自己運動する自分自身から生きる存在として理解する」。したがって、自己運動する神の自由な愛の行為の出来事としての神の存在を、「神が愛し給うことを、それ自身の故に愛する愛として、無条件的な、自分で自分の根拠と目的を措定する、徹頭徹尾主権的な愛することとして、理解する」。「この精密規定なしには、すなわち〔キリストにあっての〕神は生き、愛し給うという独一無比性についての表示なしには、われわれは、〔キリストにあっての〕神が生き、愛し給うことではなく、〔人間の想像能力・思惟能力・表象能力によって〕一般的に生きることと愛することについて語っているのであって、〔キリストにあっての〕神については語っていないのである」。まさに「この精密規定は……自由という概念によって与えられている」。「生きる方、愛する方としての〔キリストにあっての〕神の存在は、自由の中での神の存在である」。そのように「自由に、神は生き愛し給う。神は、自由の中で生き、愛し給うという仕方で、またそのことの中で、神であり、ご自身をそのほかの生ける者、愛する者から区別し給う。そのような仕方で、自由な人格、<われ――存在>として神はご自身をその他の人格から区別し給う」。また、キリストにあっての「神の自由」は、先ず以て「自己自身である神の自由」、すなわち「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の自由としての「自存性の概念〔「神の自由の概念の積極的側面」〕<と>神とは異なるものによってなされるすべての条件づけからの神の自由、すなわち「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における自由、換言すれば起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における自由としての独立性の概念〔「神の自由の概念の消極的側面」〕との<全体性>において定義されなければならない」。何故ならば、例えば「世界に対する神の関係としての神の創造と和解の概念<と>神の全能、遍在、永遠性の概念は、神とは異なるものによってなされるすべての条件づけからの神の自由としての独立性の概念に言及することとなしに、把握し、展開することはできない」からである。したがって、キリストにあっての「神の自由」は、その「神の自由の<全体性>における認識の下で起こる時にだけ、正しい仕方でなすことができるし、なすのである」。キリストにあっての「神についての聖書的な証言」は、「神の自由を、神とは異なるすべてのものに対して持つところの神の優位性を、神とは異なるものによってなされるすべての条件づけ〔外的条件づけ〕からの神の自由〔「独立性としての神の自由」〕としての神の相違性〔差異性〕そのものの中でだけ見ているだけでなく、神がそれらを実証することによって、それ故に外的条件づけからの神の自由に相対しても自由〔「自存性としての神の自由」〕であり、この完全な自由を放棄することなく、創造主、和解主、救済主として、神とは異なった実在との交わりへと歩み入り、その交わりの中でその実在に対して忠実であり給うということの中で、神の真実を実証し、まさにそのようにしてこそ現実に自由〔「独立性としての神の自由」〕であり、ご自身の中で自由〔自存性としての神の自由〕である、その神の自由の<全体性>の中で見ている」。 

 

「平和に関するバルトの書簡」を書いたバルトは、『福音と律法』で、次のように述べている――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子<の>信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格を「目的格的属格」(「イエス・キリスト<を>信じる信仰」)として理解された信仰に由って生きるのではなく〕、神の子<が>信じ給うことに由って生きるのだということである〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格を「主格的属格」として理解された信仰、まさに徹頭徹尾神の側の真実としてのみある<主格的>属格として理解された「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」に由って生きるのだということである〕)』(ガラテヤ二・一九以下)。〔それ故に、〕(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」。われわれの「召命」、「和解」、「義認」、「聖化」、「救済」、そして「更新」を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うたイエス・キリストにある『復活の力』だけである」――このことが、「福音と律法の現実性における勝利の福音の内容」である。したがって、「人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが」、換言すれば「貧民窟、牢獄、養老院、精神病院」、「希望のない一切の墓場の上での個人的な問題……特殊な内的外的窮迫、困難、悲惨」、「現在の世界のすがたの謎と厳しさに悩んでいる(……これらが成立し存続するのは自分のせいでもあり、共同責任がある)」「闇のこの世以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」。したがってまた、「イエス・キリスト<を>信じる信仰」は、言葉(理論)と行為(実践)を二元論的に分離し対立させて、人間存在の総体性の問題や現存する世界をトータルに把握することができる世界認識の方法の問題や民族国家を無化する「問題を明確に提起する」ことなく、ただ外皮的皮相的に説教(言葉)だけでなく行動(社会的な政治的な実践)も必要であると声高に叫ぶことではなくて、それが社会的な問題や政治的な問題や平和の問題(すなわち、戦争を廃棄する問題、換言すれば民族国家を無化する問題)に対してであれ、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、すなわちその中での三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との「全体性」において、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(すなわち、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(すなわち、区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、換言すれば全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行くとこにあるし、そしてそこのところで「ある状況下において、その状況に抗するそれとして」社会的なあるいは政治的な行動に、「おのずから」、必然的になって行くというところにあるのである。このように思惟し語るバルトの告白教会そのものに対する批判は、次の点にあった――それは、「第一に、彼らは、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕イエス・キリストにおける神をのみ神とするイエス・キリストの教会として、またイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの教会として、第一戒の告白が、ナチズム、全体主義国家の支配に対する単に一つの<宗教的な>決断、<教会>政治上の決断を意味するだけでなく、〔時代と現実から強いられたところの不可避的な〕事実上一つの<政治的>決断を意味するということを理解していなかった」という点にあった。第二に、「彼らは、その宣教の自由と純粋性のために闘ったが、例えば〔大多数の被支配としての〕ユダヤ人に対してとられた処置……取り扱い……弾圧等については沈黙した」という点にあった。こうした中で、バルト自身は、「神学的根拠、第一戒の告白に基づいてナチス国家に対するキリスト者の直接的な政治的抵抗の必要性を認識し始めたし、事実ナチス国家に対する政治的抵抗も含む抵抗運動の方向へと前進した」。バルトは、「ドイツ教会の試練と苦悩を、プロテスタント改革派教会内に自覚的に生きるすべてのスイス人、スイスのプロテスタント主義に対する問いとして受けとめた」。このように思惟し語るバルト自身は、終末論的信仰の観点からもそうであるべきであるが故に、すなわち国家論の、革命論の究極的最後的課題は、それが自由主義的国家であれ、社会主義的国家あれ、どのような国家形態であれ、<観念的な>共同性を本質とするすべての国家は無化されるべきであるというところにあるが故に、あくまでもその時代と現実に強いられたところでの<相対的>評価においてであるが、自由および直接民主制と武装永世中立の緩衝国「スイスをナチズムからまもるために……軍隊に参加し、両国を区分しているライン河にかかっている橋を護衛するために、もしもドイツのキリスト者の友人の一人が、その橋を爆破しようとしたら、射殺しなければならなかったであろう」と述べている。何故ならば、確かに「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない。しかし、このことは、われわれは<平和主義>者でなければならないということを意味しない。<平和主義>は一つの<絶対主義>だ(すべての主義のように)。われわれは〔聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神には服従するが、一つの原理や理念にはしないしたがって、われわれは最後の手段のために、〔現存する世界が経済の世界性と戦争の元凶である民族国家の一国性を単位として動いている限り、〕戦争の可能性はあけておかなければならない」からである。このように思惟し語るバルトは、また次のように述べている――「……ある特定の瞬間になした決断はおそらく、〔第三の形態の神の言葉である〕もっとも重要なキリスト教の教義よりもっと重要であるかもしれない」(『バルトとの対話』)。バルトは、外皮的皮相的なただ単なる平和<主義者>とは全く違っている。世界をトータルに把握する世界認識の方法の問題や人間存在の総体性の問題等を<明確に提起しない>まま、福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということがなされないままに、礼拝改革とか、キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」時、また「宣教の規準を、聖書と同時に、最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断あるいは哲学、道徳、政治におく」時、また特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合おうとする」時、また「ある社会機構、あるいは経済機構の保持、廃止に貢献しようとする」時、「教会の宣教をより危険なものにしてしまう」(『教会教義学 神の言葉』)、人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている。国家は支配であり、文化は支配である。したがって、どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に然りとは言わぬ」(『啓示・教会・神学』)、西の獅子に全力をあげて抵抗しないような人びとは、決して東の獅子にも抵抗しえないし、また事実、抵抗しない」・世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしないで、私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待するべきである共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト

 

こうしたバルトに対して、「スイスのナチ党員だけでなく、オックスフォード<グループ>運動〔「エミール・ブルンナーも、そのとりこになった」〕の参加者や宗教社会主義者たちは対抗した」(最後的には離脱した宗教的社会主義について、バルトは、『教会――活ける主の活ける教団』「証人としてのキリスト者」で、「そこでの人間の困窮と人間に対する助けとが、聖書が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されていなかった」と述べている)。このように思惟し語るバルトにおけるバルメン宣言の総括的内容は、時代と現実から強いられたところでの、まさにすべての「『自然』神学」との戦いの過程における「『自然神学との戦いであったという点にあった。バルトは、次のように述べている――19345月、「ドイツ福音主義教会第1回告白会議において、ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学宣言(バルメン宣言)が採択された」、この「宣言の原理は〔バルトだけがそのことに対して自覚的であったがその宣言の原理〕」、すべての「『自然』神学」を根本的に原理的に包括し止揚し克服することができるところの、第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環において、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行くという点にあった。「誰が何がそもそも世界と教会を支配しているのかわれわれは誰に耳を傾けなければならないのか誰を信じ誰に服従しなければならないのか」――それは、「われわれを結合するものは、一にして、聖なる、公同の、使徒的教会のただひとりの主であるただイエス・キリストだけである」、この「主に対する信仰告白である」バルトにとってこのバルメン宣言の重要性、この本文は、福音主義教会がその信仰告白という形で自然神学の問題と対決した出来事の初めての記録であるという点にあった」。また、バルトは、19379月、イギリス旅行の帰路、パリでピェール・モーリィと会って、「新しい国際的神学雑誌『ドクトリーナ』の計画について……相談した」が、バルトは、「新たな妥協主義の危険に対する不安から、この計画を中止した」。すなわち、バルトは、「トゥルナイゼンやモーリィは参加したが、オックスフォードとエディンバラで開催された楽観主義的な、寛容主義、妥協主義に基づくエキュメニカル会議への参加を<意識的に>とりやめた」。何故ならば、バルトは、外皮的皮相的な「妥協主義に基づく公式のエキュメニカル運動には懐疑的であった」からである。バルトは、そのような「国際的な舞台の上で……引き出すことができるものといえば、……いつも相も変らぬ妥協〔外皮的皮相的な折衷主義、外皮的皮相的な党派的多元主義の容認、皮相的外皮的な妥協による妥協主義〕が、関の山でしかない」と述べた。まさにここに、包括的に言えば「『自然』神学」から自覚的に対象的なって距離をとっていないところの「人間学の後追い知識」としての「混合神学」、「すべての大学社会の神学」、「人間学的神学」、「哲学的神学」、「形而上学的神学」、「形而上学的な教義学」を<否定的に>媒介した「『<非>自然な』神学」の<立場>に立脚するバルトの<立場>があるのである。言い換えれば、バルトの<立場>は、第三の形態の神の言葉である教会の宣教において、それ故にその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学において、「体系があるとすれば、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕啓示の中での体系は、ただイエス・キリストの<名>だけがある」から、「教義学的な合理主義を明確に否定」して、徹頭徹尾、キリストにあっての神の<特別啓示>、<啓示>の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、<啓示>神学に立脚するという点にある。逆に言えば、バルトは、徹頭徹尾、<一般的>啓示、<一般的>真理、「<存在するもの>の類比、存在ノ類比」、「人間学の後追い知識」としての「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」、「混合神学」、「人間学的神学」、「哲学的神学」等の「『自然』神学」には立脚しなかったという点にある。 

 

「われわれは、神の認識可能性を確かめるためには、したがってわれわれの神認識の確実性を確かめるためには、先行する神の用意」に包摂された「人間の用意ができている」ところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、神の側からする神の人間との架橋)であり、「神との間の平和」(ローマ五・一)であり、それ故に「神の認識可能性である」「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「ただイエス・キリストの<名>だけ」――このイエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識〔すなわち、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事〕に向かっての人間の用意が存在する」のであるから、その「ただ神によって遂行されたその介入の実在を堅くとって離さないでいるしかない」。したがって、「われわれは、ただ神の認識可能性に対して感謝することができるだけである」。したがってまた、われわれは、「存在するものそのもの、その純然たる造られた存在、造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」と「<存在するもの>の類比、存在の類比」に依拠して思惟し語るアウグスティヌスのように、「神の認識可能性を、……何らかの仕方ですでに持っており、自分で取る得あろうところでは見出すことできず、すでに存在している類比〔「<存在するもの>の類比、存在の類比」〕の中で見出すことはできず」、「ただ神の恵みを通して<造り出される>ことができる類比の中でだけ〔すなわち、「恵ミノ類比」の中でだけ〕、それに対してわれわれが理解を絶した実在の中でわれわれにとって近づき得るものと<された>近づき得ないものとして、然りを言うところの恵みと信仰の類比の中でだけ〔すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に依拠した「信仰の類比」の中でだけ〕、見出すことができる……」。 

 

イエスキリストは主なりという信仰命題は概念の最後的究極的意味においてイエスキリストが、〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」として〕、自分自身の中に基礎づけられて唯一のもろもろの主主権であるということを意味しているこの神性を内在的本質とする「イエス・キリストの存在が、イエス・キリストを直接に唯一の神である父の場所へと移すのである」。「イエス・キリストは神であるというキリストの神性についての命題は、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である〕彼の〔すなわち、子としてのイエス・キリスト自身の〕父を啓示する、父を啓示するものは神を啓示する〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」を啓示する〕」ということを意味している。この「イエス・キリストは、啓示の中で、主として、永遠の真理および客観的な啓示の実在自体として、降下突入してくる」。 

 

われわれは光よりの光神よりのまことの神造られずして生まれたものとしてのイエスキリストを信ず――この第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)は、「キリストの神性についての三位一体神学の本来的にして決定的な規定である」「造られずして、生まれ」とは、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方における第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である「イエス・キリストは、神性を本質とするということを、神から由来するということを〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」から由来するということを〕」意味しているその第二の存在の仕方における「和解主としてのイエス・キリストは、神ご自身であるが故に〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」であるが故に〕、イエス・キリストのその第二の存在の仕方における〕人間的『性質』、人間であること、神との和解者としてわれわれに出会うところの人間であることは、啓示および和解として現実に有効なのである。したがって、バルトは、『福音と律法』および『教会教義学 神の言葉』で、次のように述べている――徹頭徹尾神の側の真実としてのみある<主格的>属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」(「イエス・キリスト<>信ずる信仰」による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「成就と執行、永遠的実在としてある」成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な「救済」そのもの、それ故に「平和」そのもの(すなわち、区別を包括した同一性において、その包括的な救済概念は平和の概念と同一である――『平和に関するバルトの書簡』)、「神ご自身によって確立された和解、神と人間……また人間とその隣人との平和」そのもの)において、<信>と<不信>(不信仰の側の外在的な不信仰および信仰の側にも内在する内在的な不信仰)を架橋されたところのイエス・キリスト自身、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身――この「一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派〔学派、教派、思想傾向、時流、「同時代の人たちの思考の前提」や「そこから形成された理解の規準」、類的機能を持つ生来的自然的な人間の自由な自己意識・理性・思惟や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」としてのさまざまな主義や主張〕に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」。人間学的領域における言葉の専門家であり文芸批評家であり思想家である吉本隆明も次のように述べている――「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している中で、自らの立場において、両者を包括し止揚しなければならないということが思想的な問題である(『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって」)

 

 さて、われわれにとっては、人間学的な領域においても、二流以下の知識や思想に基づいた思惟と語りしかでき得ていないにも拘らず、一流のふりをする作家や学者や知識人や思想家や評論家がごまんといる中で、極々少数であれ一流の優れた知識や思想に基づいた思惟と語りができ得ている作家や知識人や学者や思想家や批評家の思惟と語りは非常に貴重なものである。言葉の専門家であり文芸批評家であり思想家である吉本隆明は、次のように述べている――「……<奇跡>(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流の言葉(文芸批評や思想の言葉)でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、『鶏が二度鳴く前に三度私を否むだろう』と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、〔また例えば、ヨハネ87-9にある人間の内面の普遍性に届くイエスの言葉をとっても〕人間の<悪>というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです(吉本隆明『<非知>へ――<信>の構造 対話編』「吉本× 末次 滝沢克己をめぐって」春秋社)、「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます(吉本隆明『敗北の構造』「南島論」弓立社)、ちょうど科学や技術の進歩・発達した現在でも宇宙の謎の90%以上が未解明のままであるように、また情報科学と情報技術の進歩・発達もそうであるように、情報技術に関連すAIも、人間存在の総体性等々を包括できるわけではない、人間の個や類の、その時間性の未来が全面的にバラ色である訳ではない、素晴らしい訳ではない。また、言語の専門家であり作家である太宰治は、『正義と微笑』で、次のように述べている――「聖書を読みたくなって来た。こんな、たまらなく、いらいらしている時には、聖書に限るようである。他の本が、みな無味乾燥でひとつも頭にはいって来ないときでも、聖書の言葉だけは、胸にひびく。本当に、たいしたものだ」。また、ドストエフスキーは、『罪と罰』で、マルメラードフに「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる、神さまは万人を裁いて〔「裁き」〕、万人を赦され〔「恵み」〕、最後の日にやって来て、……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く、主よ、汝の王国の来たらんことを」と終末論的信仰を告白させている。また、カトリック作家の小川国男は、吉本との対談で、吉本に「あなたはキリストの再臨を信じていますか」と聞かれ、「キリストの再臨を信じています」と告白している、それに対して吉本は疑問を投げかけたり批判したりすることなく受容している。だからと言って、吉本の思惟と語りから分かるように、歴史的<事実>を否定しているわけでは全くない。したがって、マルクスが『資本論』「第1版の序文」で述べていたところの、それが良きものであれ悪しきものであれ自然史の一部としての人類史の自然史的過程における自然史的必然としての自然史的成果である経済社会構成の拡大・高度化、科学や技術の進歩・発達、その知識の細分化・増大、生活の利便性の向上等についての思惟と語りも首肯する。まさにバルトも、そうである。例えば、バルトは『教会教義学 神の言葉』で、次のように述べている――「歴史主義は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、啓示を問おうとしないで人間精神の自己理解を第一義として聖書の中でも神話を問うことをする。しかし、啓示の証言としての聖書の理解と、神話の証言としての聖書の理解は、相互排除の関係にある。したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化することは、証言としての聖書の実体を攻撃しないが、しかし、聖書記事を神話として受けとることは、証言としての聖書の実体を攻撃する。何故ならば、啓示は、〔人間の類の時間性、人類史、世界史としての〕歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではないからである。したがって、聖書の歴史は、一般的な歴史性を含んではいるが史実史(Historie)ではない歴史物語、古譚として受けとる点にある」と述べていると同時に、「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ〔第二の形態の神の言葉である〕聖書からのみ、換言すれば〔起源的な第一の形態の神の言葉である〕イエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない〔何故ならば、農耕を経済的基盤とした人類史のアジア的段階における日本において、非農耕民は、天皇を含めて神人と呼ばれていたからである〕。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」と述べている。 

 

イエスキリストはまことの神にしてまことの人間であるという新約聖書的――キリスト論的命題、「ひっくり返すことのできないひとつの等置である」、換言すれば「主辞」としての「まことの神」と賓辞としての「まことの人間」は、「ひっくり返すことのできないひとつの等置である」。「つねに等しくないものが等置されることとして理解されなければならない」、すなわち区別を包括した単一性において理解されなければならない。何故ならば、まことの神にしてまことの人間「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」は、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉)であるからである。したがって、イエス・キリストにおける神の「自己啓示」・「自己顕現」は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの名」において、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の認識(啓示認識、啓示信仰)を要求する啓示なのである。したがってまた、『神の人間性』においては、そのことは、先ず以て「神の神性において、また神の神性と共に、ただちに神の人間性もわれわれに出会う」と表現されている。 

 

一 和解主としての神」、「二 永遠なる子 

「一 和解主としての神」 

 聖書が主と呼んでおり啓示の中で人間を取り扱われる方は誰であるかという問いに対して、「聖書の証言の最高点においてナザレのイエス……であると言われている」。すなわち「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「ただイエス・キリストの<名>だけ」であると言われている。 

 

 ヨハネ114の言葉は肉となったという新約聖書の中心的命題」、そのヨハネ114の言葉「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての神であり給う言葉が人間となったということであって〔すなわち、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方における第二の存在の仕方である起源的な第一の形態の神の言葉が人間となったということであって〕、決して神性それ自体が人間となったのではないということである〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の神性それ自体が人間となったのではない〕」。バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、「単なる知識と認識とを厳密に区別して」、次のように述べている――「全く特定の領域で、ある特定の状況において、ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、すなわち神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「その死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」に基づいて「神の言葉を聞き、認識し、信仰し、語る責任ある証人となる」時、その「出来事、確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝をもって信頼し固執し固着する「認識、信仰である」。「その時初めて、神の言葉は、われわれ人間に対して実在となり、またわれわれ人間も人間的にそれを実在として理解することができる」、と。したがって、学業的な「ただ単なる知識」に過ぎないある「最高存在、最モ完全ナ存在としての啓示概念」は、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」(すなわち、「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」、「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)ではない。このような訳で、「神の言葉は、人間の現実存在の内部にはない。何故ならば、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」からである。したがって、「神の言葉が人間によって信じられる……出来事、信仰の出来事」は、徹頭徹尾「人間自身の業ではなく、〔客観的な〕神の言葉自身の業、その「啓示の出来事の中での主観的側面としての聖霊の注ぎに基づいている〔すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいている〕」。「言葉を与える主は、同時に、信仰を与える主である」。したがって、「聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である〔客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」、この〕啓示の宣べ伝えを目指すことのない〔すべての「『自然』神学」の段階で停滞と循環を繰り返している〕単なる知識としての〔換言すれば、単なる学業的な知識としての〕形而上学的な教義学は、それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方のものであっても、その教義学は教義学〔<教会>教義学、<福音主義的な>教義学〕としては非学問的なのである」。 

 

 さて、新約聖書は主という賓辞の中で表現されているようなまことの実在の神性を先ず第一にイエスとは別の方に帰している〔何故ならば、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」(起源)としての「父は、子として自分を自分から区別するし、自己啓示する神として自分自身が根源である」ことからして、「その区別された子は、父が根源である」からである〕」。すなわち、「子としてのイエスが主であることは、明らかに、ただ<父>なる神が主であることを現わす現われ、行使、適用である。この父なる神を代表すること、それがイエスに帰せられた神性の本質である」。したがって、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての「子と霊は、父とともにひとつの本質である」。詳しく言えば、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>を包括したこの「神的本質の単一性〔「失われない単一性」〕の中で子は父から、霊は父と子からであり、他方、<父は自分自身以外の何ものからでもない>」。 

 

 そのような訳で、第二の形態の神の言葉である聖書的証言の本来的テーマ「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方であるナザレのイエスという人間の歴史的形態としてのイエスキリストの>」神性子なる神キリストの神性を問う問いの中に父を問う問いと聖霊〔換言すれば、「父ト子ヨリ出ズル御霊」〕を問う問いとが包括されているという点にある」。したがって、イエス・キリストにあっての神の自己啓示は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの名」(啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)において、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の認識(啓示認識、啓示信仰)を要求する啓示なのである。このような訳で、われわれは父としての神の概念を仲介者のイエスキリストから決して切り離してはならないということが啓示認識啓示信仰の前提である」。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「キリストにあっての神は、父であることを永遠の父であることとして理解しなければならない」。そして、聖書的な証言において、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「子が父と一つであることが、したがって、イエス・キリストの神性が、決定的な、本来的な、本質的な、一つである、および神性であるとして理解されるべきであるなら、われわれは……三位一体教義に従わなければならないであろうことが、はじめから期待されているのである」。聖書的な証言において、キリストにあっての「神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、〔神的愛に基づく父と子の交わりとしての〕父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する」。したがって、このイエス・キリストにおける神の自己「啓示が〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である〕教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)である三位一体論の根拠である」。したがってまた、イエスは主である――この「主は、ヘレニズム的エジプトの神的な世界支配者の称号のことではない、ローマ皇帝崇拝における皇帝の称号等のことではない」。そうではなくて、その「主は、原始教会と、パレスチナおよびヘレニズム世界の会堂との密接な関連性を考慮に入れた旧約聖書の神の名、ヤハウェ、旧約聖書において、……人間に啓示されたヤハウェの翻訳としての主である」。「その名は、その中で、彼らの言葉と業全体が演じられるべき(コロサイ317)場所……領域である……。それは、正確に、旧約聖書においてヤハウェの名がもっているのと同じ包括的で決定的な意味である。神は、すべての名にまさる名を彼に賜わった(ピリピ317)」。「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方(様態、外在的本質、啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)であるイエス・キリストの性質・働き・業・行為・行動は、「言葉と行為」の相互規定的な全体性における「行為言語としてある」。したがって、「ブルトマンの『イエス』の限界(問題性)は、イエスをイエスの言葉から一面的に組み立てている」という点に、その木を見て森を見ないという仕方での一面だけを抽象する形而上学的な思惟と語りに、すなわち「行為言語を無視してしまっている」という点にあるのである。 

 

 さて、第二の形態の神の言葉である新約聖書においてはイエスにメシヤキリストの称号人の子の称号神の子の称号が帰せられている」。この「イエスに帰せられた神の子の称号は、古代オリエントにおける国王の……名称とは異なっている」。すなわち、「イエスに帰せられた神の子の称号」は、「存在するすべてのはじめに、神と共に〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」共に〕、神に属しつつ、したがって、みずから神であり、本性からして神であり(ヨハネ11)、それを通して、神が、存在するすべてのものを存在と存在の中へと呼び給う(ヨハネ13)ところの言葉と同一である〔すなわち、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(語り手の言葉)と同一である〕」。このイエスは第二の形態の神の言葉である聖書において次のように言われている――「イエスは、彼を見る者は、父を見るのである(ヨハネ149)、彼は……初めであり、終わりである(黙2213、なお1817を比較せよ)、彼は、今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者であり、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない方(ヘブル138)である、神は彼によってもろもろの世界を造られた(ヘブル12)、彼はすべてのものの主(使徒行伝1036)、すべてのものはわたしの父によってわたしにゆだねられた……!(マタイ1127)、万物は言葉によって成った。成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった(ヨハネ13)」。したがって「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)イエス・キリストにおける神の自己啓示の場所は、われわれ人間の個と現存性(すなわち、人間の個の時間性、個体史、自己史)、人間の類と歴史性(すなわち、人間の類の時間性、人類史、歴史、世界史)の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所なのである。それだけでなく、「『自然』神学」から自覚的に対象的になって距離をとり得ていないすべての教会の宣教および神学における「福音が、理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと、鋭さをなくした十字架象徴論へと、イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」(『カール・バルト『ヨブ』ゴルヴィッツアー編』)ことが見渡せる場所でもあるのである。 

 

 イエスは主であるあなたこそ生ける神の子キリストです(マタ1616)」――このことは、「イエス・キリストは神性を本質とするということである」、換言すればイエス・キリストは、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質と「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」として、神性を本質とするということである。この「キリストの神性」は、すなわちこの「キリストの永遠のまことの神性の告白」は、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>と共に、人間中心主義的な人間の神化あるいは神の人間化の原理を発見したヘーゲル哲学、またその「強力な痕跡」を持つ「シュライエルマッハー等」、ブルトマンやモルトマン、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教信仰、神学、教会の宣教、包括的言えばローマ・カトリックを含めた一切の「『自然』神学」の段階で停滞と循環を繰り返す信仰、神学、教会の宣教に「抗することができる思想的武器である」。近代主義的プロテスタント主義的キリスト教信仰、神学、教会の宣教が、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない場合、それは、視覚的錯覚〔換言すれば、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍〕に依拠しているからである」。「その時には、イエス・キリストにかかわる和解に関して言えば、赦す神が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が思弁でしかないものである」。「その時には、イエス・キリストは、下からの半神、超人、人間の最深の本質、最高の理想〔あるいは、八木誠一の『イエス』によれば、「根底」的「真実」的「人間存在」、「ただの人」〕という単なる空虚な概念、〔学業的な〕ただ単なる知識でしかなくなってしまう」。 

 

 さて、一方で、「神性否定のキリスト論のエビオン主義は、そのあとにつづいて歴史的に再構成され続けている」。このエビオン主義における「神性否定のキリスト論におけるイエスは、個人主義的なものとしての一人の『偉大な人間』の神化、神話化されたナザレのイエスである」。すなわち、「未だかつて聞いたことのない純真さ、自由さ、従順、愛、死いたるまでの真実の生活態度の開始者、宣教者のナザレのイエスのことである、またそうしたキリスト教宗教の創始者、キリスト教会の創設者としてのナザレのイエスのことである」ここで、「イエスは、超歴史の中へと突入していく歴史の本来的な山頂である。すなわち、イエスは、人間的な生の最高の現象である。エビオン主義的な思惟の宿命的な出発点は、人格性である」。他方で、「神性否定のキリスト論の仮現論は、そのあとにつづいて歴史的に再構成され続けている」。この仮現論における「神性否定のキリスト論におけるイエスは、集団主義的なものとしてよく知られた先在的ロゴス……世界救済者としての最深の本質、最高の理想、ひとつの理念、一般真理の人格化されたナザレのイエスのことである、ひとつの理念、一般真理等のために要請されたナザレのイエスのことである」、「地上の現実存在の具体的な人間性、究極的には……その人間性の歴史的実在性を揚棄された神的実体の一つの類似性、象徴として信じられたナザレのイエスのことである」。ここで、「イエスは、上から歴史の中へと……下ってくるところの超歴史の寄生根である。すなわち、イエスは神的現臨の最も完全な象徴である」。このように、両者の教説は共に、下からと上からの差異はあれ、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を認識し自覚していない人間の側からする神と人間との「混淆」・「混合」論である。人類史のアジア的段階における経済的基盤を農耕に置くことによって自然から対象的なったとはいえ、いまだ自覚的に自然から対象的になって距離をとり得ていない「スフィンクス的思惟である」。両者の教説は共に、「キリストの神性についての新約聖書の命題は、一人の人間の神化とも、一つの神の理念あるいは神的理念の人格化とも全く関係がないという前提のもとでだけ理解されることができる」ということに対して認識し自覚していないイエスキリストは彼が自分の父と呼んでいる神から〔すなわち、彼が、「自己自身である神」(ご自身の中での神)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「根源」(起源)としての自分の父と呼んでいる神から〕、主であることをもつ故に……彼の父とともに父の子として、『永遠の父の独り子として主であるそれ故イエスは主である」。したがって、われわれは、「この新約聖書の命題を、古代教会と一致しつつ理解しなければならない」。したがってまた、われわれは、「キリストの神性」を、次のように理解しなければならない――父から区別された子としての「キリストは彼の父を啓示する」、すなわちキリストは、「子として自分を自分から区別するし、自己啓示する神として自分自身が根源である」ところの「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「根源」(起源)としての「父を啓示する」。このように「この彼の父は神である」。したがって、「父の意志と業を啓示する者、啓示者である〔すなわち、啓示者であり言葉の語り手である〕父を啓示する者は、神を啓示する」。したがってまた、「イエスを彼の父の啓示として告白する者は、イエスを、彼の父と神性において本質的に等しいものとして告白する〔すなわち、イエスを、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「根源」(起源)としての彼の父と神性において本質的に等しいものとして告白する〕、父なる神のまことの子として告白する」。このことは、「われわれにわれわれの主を知らせるばかりでなく、……同時に、イエスご自身われわれの主であり」、それ故に「イエス・キリストは父の子として……自分自身も啓示する」。この「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である子としてのイエス・キリスト自身における「和解主なる神の業と行為は、〔起源的な第一の存在の仕方、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、啓示者・言葉の語り手・創造者としての父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事であるイエス・キリストの父における〕創造主なる神の業と行為とは別である」、両者の業と行為にはその神の起源的な第一の存在の仕方<と>神の第二の存在の仕方における差異がある。すなわち、それは、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての「神によって始められた神とわれわれとの間の交わりの実在を意味する〔すなわち、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)――先ず以て起源的な第一の存在の仕方である啓示者・言葉の語り手・創造者としての父、それから第二の存在の仕方である啓示・語り手の言葉(換言すれば、起源的な第一の形態の神の言葉・和解者としての子、それから第三の存在の仕方である啓示されてあること・「神の言葉の三形態」(換言すれば、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)・救済者としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における神とわれわれとの間の交わりの実在を意味する〕、神の意志と働きの開示を意味する」。「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方である「子あるいは言葉の業は、人間の闇の中で、神の現臨とご自分を知らせる啓示の出来事である」。したがって、「和解という言葉は、われわれによって破壊され……無とされた神と人間の交わりの回復としての啓示と同一の事柄を意味する別の言葉である」。このイエス・キリストにおける神の自己「啓示の中では神の敵はすでに神の友人である限り、啓示そのものが和解である」。したがって、「使徒的奉仕は和解の務めである。それは、神の和解を受けなさい(Ⅱコリント520)という要請の中で執行される〔『福音と律法』によれば、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えの中で執行される」。 

 

 しかし、「啓示あるいは和解に基礎づけられた救贖〔すなわち、「完成」――『バルトとの対話』〕は、新約聖書においては啓示あるいは和解から見てなお未だ来ていない、未来の、完成させる神の行為、聖霊の業と行為に属している」。すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第三の存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての神的愛に基づく父と子の交わりである聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事に属している。「復活と完成との間は、イエス・キリストの父であり、イエス・キリスト自身であり、この父<と>子の霊としての聖霊の時代である」。「新約聖書によれば、〔神のその都度の自由な恵みの神的決断により〕神の恵みの賜物である聖霊を受け、満たされた人は、召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、<すでに>と<いまだ>において終末論的に語る。ここで、終末論的とは、われわれの経験と感性にとっての<いまだ>であり〔すなわち、われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり〕、〔徹頭徹尾神の側の真実としてある〕成就と執行、永遠的実在として<すでに>ということである」。したがって、「救贖」、すなわち「完成」には、「復活されたキリストの再臨を待ち望まなければならないのである」。「旧約聖書的な待望の時間と新約聖書的な想起の時間との間の成就された時間とは、イエスがご自分をお示しになった復活のあの四〇日(使徒行伝一・三)のことである」。この「われわれの時間の中で、実在の成就された時間」、「まことの過去とまことの未来を包括したまことの現在」、「ここに、神の言葉がある」。「新約聖書の証人たちは、このキリスト復活の四〇日をおぼえる想起において、キリストの死〔十字架〕とキリストの生涯を想起する時、光を得たのである。彼らは甦えりの証人である。そして彼らは、既に来た方〔すなわち、「復活されたキリスト」〕はまたこれから来たり給う方〔すなわち、「再臨される方」〕であることを語るのである」。「新約聖書の信仰は、想起の時間である聖霊降臨日のあとの時代である」。 

 

 さて、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての「神は、イエス・キリストにおいて、われわれを……力として物を支配するような仕方ではなく、人格が人格を扱うような仕方で扱う。永遠の神は汝の兄弟となり給う」。ここにおいては、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の「総体的構造」からして、「罪人ハ神ノ言葉ニ対シテ能力ガナイという命題が、取り去られている」。新約聖書のテキストの中においてはイエスの中でまさしく神が見出されるまた神はまさにイエスの中で見出される」。「イエスキリストは啓示者である父なる神の子としての啓示ないし和解の実在そのものとして父の啓示であり父の啓示は啓示者である父なる神の子としての啓示ないし和解の実在そのものとしてのイエスキリスト自身である」。したがって、「このことを理解の前提としない場合、一つの歴史的形姿から一つの天的本質を、一つの天的本質から一つの歴史的形姿を生み出すことになる、〔すなわち、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・〕思惟の対象としてのイエスを語るだけになる。仮現論的な思惟の宿命的な出発点は、理念である」。「われわれが神の敵であることの認識は〔すなわち、『福音と律法』によれば、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間は、キリストにあっての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという無神性・不信仰・真実の罪のただ中にある神の敵であることの認識は〕、存在および存在的には得られない。その認識は、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準としない限り、すなわち「教義学的な合理主義を明確に否定」して、徹頭徹尾、キリストにあっての神の<特別啓示>、<啓示>の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、<啓示>神学に立脚しない限り、換言すれば「教義学的な合理主義を肯定」し、<一般的>啓示、<一般的>真理、「存在の類比」(「神とわれわれ人間を区別しないで包括する存在者の類比」)に立脚する限り、すなわち包括的に言えば「『自然』神学」に立脚する限り、得られない。ちょうど、その客観的な「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」が、われわれ人間に対して、「生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」ということをわれわれ人間に自己認識・自己理解・自己規定させるように、また「神の選びをイエス・キリストの復活」において自己認識・自己理解・自己規定させ、「神の放棄をイエス・キリストの十字架()」において自己認識・自己理解・自己規定させるように、もっと言えばわれわれ人間は、生来的な自然的な「『自分の理性や力〔感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的修行等〕によっては』――全く信じることができない」ということを(『福音主義神学入門』)、また「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」ということ自己認識・自己理解・自己規定させるように、また「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)――この「ただイエス・キリストの<名>だけ」が、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたローマ書322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」(イエス・キリスト信ずる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は、区別を包括した同一性において、平和の概念と同一である)であるということを自己認識・自己理解・自己規定させるように (『福音と律法』および『ローマ書新解』ならびに『平和に関するバルトの書簡』)。このように、われわれは、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」(「存在的な必然性」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で「本当に神の啓示を認識〔啓示認識(啓示信仰)〕する時、〔そしてその啓示認識(啓示信仰)に依拠した信仰の類比を通して〕われわれは初めて、神に対する人間的反抗、神の敵、神に相対して、自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間としての自分自身を、またそのような人間の世を認識することができる〔自己認識・自己理解・自己規定することができる〕」。そうでない限り、ちょうど例えば「人間学の後追い知識」としての神学、混合神学、人間学的神学、包括的に言えば「『自然』神学」に立脚したモルトマンのように、自由を原理とし西欧近代を頂点とする進歩史観を展開したヘーゲルの歴史哲学に依拠して、楽天主義的な神学的三段階的進歩史観を目指してしまうことなる。 

 

 われわれは、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」を、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身において、「先行してわれわれとの間の交わりをすでに始め給うたことを通して、初めて知るのである」。先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解〔神の側の真実としてのみある、神の側からする神の人間との架橋〕であり、神との間の平和(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である子としてのイエス・キリスト自身において、神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識〔信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事〕に向かっての人間の用意が存在するのである」。すなわち、先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意という人間の局面は、全くただキリスト論的局面だけである」(『教会教義学 神論』) 

 

 さて、「創造された世界における神の愛〔「神が創造することを欲せられ、創造された起源的人間、世に対する神の愛」〕とわれわれの世界におけるイエス・キリストの事実の中における神の愛〔「神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった罪に落ちた人間、罪と死があるわれわれの世界、人間の失われた世に対する神の愛」〕との間には差異がある」。すなわち、後者における「和解ないし啓示は、創造の継続や創造の完成ではない」。後者における「和解ないし啓示」は、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である「イエス・キリストの新しい神の業である。それは、神的な愛の力、和解の力である」。このような訳で、イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の第二の存在の仕方において第二の神的行為を遂行したのである。この「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における起源的な第一の存在の仕方(すなわち、啓示者・言葉の語り手・創造者としての父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)と第二の存在の仕方(すなわち、啓示・語り的の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「創造と和解のこの順序に、キリスト論的に、父〔啓示者・言葉の語り手・創造主〕と子〔啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解主〕の順序が対応しており、和解主としての子としてのイエス・キリスト自身は、創造主としてのイエス・キリストの父に先行することはできないのである」。しかし、「この父と子の従属的な関係」におけるイエス・キリストの父も、子としてのイエス・キリスト自身も、その内在的本質の観点からは、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」である。「創造が無からの創造であるように、和解は死人の甦りである。われわれは創造主なる神に生命を負うているように、和解主なる神に永遠の生命を負うている」。したがって、「創造された世に向かっての神が主〔創造主〕であるところでは、神の起源的な第一の存在の仕方について語られなければならない」。すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」) としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の起源的な第一の存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、啓示者・言葉の語り手・創造者としての父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)について語られなければならない」。また、「神に対する人間の敵意のまっただ中で神が主〔和解主〕でありところでは、神の第二の存在の仕方について語られなければならない。すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」) としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の第二の存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)について語られなければならない。しかし、「三位一体論を様態論的に理解したシュライエルマッハーは、このことについて認識していなかったのである」。すなわち、「三位一体論を様態論的に理解したシュライエルマッハー」は、三位一体論を神の存在の仕方の側面だけで理解していたのである、換言すれば彼は、三位一体論をその<全体性>において認識していなかったのである、三位一体論を、木を見て森を見ないという仕方で、すなわちその一面だけ、その部分だけを拡大鏡にかけて全体化するという仕方で、すなわち形而上学的な見方で理解していたのである。このような訳で、「子と霊を被造物だと考える者、したがって、被造物に服従する者、その者は、自分の希望を神におかず、〔それ故に、「誤謬に普遍性と組織性の後光かぶせて語る」〕キリスト者として〔主観的に、恣意的独断的に、自分は〕よりよい状態に移されていると考える点において〔客観的な正当性の観点からは〕自分をあざむいているのである」。シュライエルマッハーとは違って、ルターは「ワレワレガ、人間ハキリストニヨッテ義トサレ、キリストハ罪、死、永遠ノ呪イノ征服者デアリ給ウト教エル時、ワレワレハ、ソノコトデモッテ同時ニ、キリストハ本性ニオイテ神デアリ給ウ〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」) としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」であり給う〕トイウコトヲ証シシテイル」と述べている。 

 

 「エビオン主義的仮現論的なキリスト論に対する教会の批判は〔すなわち、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的な証言を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の批判は〕、新約聖書の使徒たちのイエスキリストの思惟におけるキリストの神性の認識でもって始まりそして終る〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」) としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の認識でもって始まりそして終る〕」。言い換えれば、「エビオン主義的、仮現論的なキリスト論」に対する根本的包括的な原理的な批判は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストは、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」) としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」であるという認識(啓示認識、啓示信仰)でもって始まりそして終る。したがって、われわれは、「和解主として十字架〔死〕および復活を通してわれわれに働きかけてくる方の中にのみ、われわれは創造主を認識することができる」と同時に、「われわれの敵意にもかかわらずわれわれの存在の主であり続ける創造主の中にのみ、われわれは和解主を認識できる」、と思惟し語る。「この世におけるこの時間的な過ぎ去りゆく生命をわれわれは、われわれキリスト教信仰の第一の条件の中で告白するように、そこにおいては、天と地の全能の創造者であるところの神を通してもつ。しかしながら永遠の、過ぎ去ることのない生命をわれわれは、われわれのキリスト教信仰の第二の条件の中で告白するように、神の右に座し給うたところのイエス・キリストの苦しみと甦りを通してもつのである」――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子<>信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の属格を、ルター訳のように「目的格的属格」(「イエス・キリスト<>信じる信仰」)として理解された信仰に由って生きるのではなく〕、神の子<>信じ給うことに由って生きるのだということである〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の属格を「主格的属格」として理解された、詳しく言えばまさに徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解された「イエス・キリスト信ずる信仰」に由って生きるのだということである〕)』(ガラテヤ二・一九以下)。〔それ故に、〕(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所であり、その城であり、その神であるということにおいてのみである」。われわれの「召命」、「和解」、「義認」、「聖化」、「救済」、そして「更新」を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うたイエスキリストにある復活の力だけである」――このことが、「福音と律法の現実性における勝利の福音の内容」である。したがって、「人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが」、換言すれば「貧民窟、牢獄、養老院、精神病院」、「希望のない一切の墓場の上での個人的な問題……特殊な内的外的窮迫、困難、悲惨」、「現在の世界のすがたの謎と厳しさに悩んでいる(……これらが成立し存続するのは自分のせいでもあり、共同責任がある)」「闇のこの世」「以外には、何も眼前に見ないのであるが」、「しかしそれと同時に人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」。したがってまた、この徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格(「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」)として理解された「イエス・キリスト<を>信じる信仰」は、言葉(理論)と行為(実践)を二元論的に分離し対立させて、説教(言葉)だけでなく行動(社会的な政治的な実践)も必要であると声高に叫ぶことではなくて、それが社会的な問題に対してであれ政治的な問題に対してであれ、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、そしてその中での三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、終末論的限界の下でのその途上性で、聖書に対する「他律的服従」(『説教の本質と実際』によれば、純粋な教えとしてのキリストの福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではない」から、また「われわれの思想、最高の習慣、最良の見解の中にあるのではない」から、換言すれば第二の形態の神の言葉である「聖書の中にある」から、それ故に「聖書への絶対的信頼」に基づく「他律的服従」)<と>そのことへの決断と態度という「自律的服従」との<全体性>において、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)<と>、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が、純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになす、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行くところで、「ある状況下において、その状況に抗するそれとして」社会的なあるいは政治的な行動に、「おのずから」、必然的になって行く、というところにある。「『<非>自然な』神学」の<立場>のバルトの場合は、そうようになるのである。 

 

二 永遠なる子 

 われわれは起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、教会の宣教およびその「一つの補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)である三位一体の教義〔「三位一体論」〕について聖書から次のように洞察し解釈した――すなわち、「神の子は、誰であるかという問いに対する答えを、父を啓示するものとして、そしてわれわれを父と和解させるものとして、イエス・キリストは神の子である。何故ならば、イエス・キリストは、現に子あるいは神の言葉であることによって、ご自分をわれわれのところに来た神の子として、あるいはわれわれに向かって語られた神の言葉として啓示するからである」。「子と霊〔聖霊〕は父とともにひとつの本質である〔何故ならば、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「根源」(起源)としての「父が、〔先ず以て〕子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源であり」、「その区別された子は、父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は、父と子が根源である」からである。「この神は、子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する」。したがって、「子と霊」は、区別を包括した単一性において、「父とともにひとつの本質である」〕」。「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「神的本質のこの単一性の中で子は父から、霊は父と子からであり、他方、父は自分自身以外の何ものからでもない」。この「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」のその内在的本質からすれば、「父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。同様に、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある」。したがって、「子としてのイエス・キリストは、啓示の出来事においてはじめて神の子あるいは神の言葉となるのではない」。すなわち、「イエス・キリストは、この啓示の出来事から離れても、また自分自身の中で、すでに<初めから>そうであるものとして、自分自身を啓示するが故に、永遠の神的真理と神的実在を持っている」。したがって、「神は子なる神である。それはちょうど神が父なる神であるように。イエス・キリスト、神の子は、神自身である。それはちょうど彼の父が神自身であるように。それからまた、この神は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示(「啓示の実在そのもの」)・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>である。 

 

 そのような訳で、「創造された世に向かっての神が主〔「創造主」〕であるところでは」、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」) としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における「神の起源的な第一の存在の仕方〔啓示者・言葉の語り手・創造者としての父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕について語られなければならない」、また「神に対する人間の敵意のまっただ中で神が主〔「和解主」〕であるところでは」、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」) としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における「神の第二の存在の仕方〔啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕について語られなければならない」。このような訳で、聖書的な証言における「和解あるいは啓示の出来事は、それ自身が、キリストの神性の承認(受認)〔認識、信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)〕を要求する」。三位一体の根本命題に即して理解すればイエス・キリストは永遠のまことの神性を本質〔「内在的本質」〕としているから啓示の出来事においてはじめて神の子神の言葉となるのではなく父を啓示するものそしてわれわれを父と和解させるものとしてイエスキリストは神の子神の言葉神の第二の存在の仕方である」。 

 

 の事柄は、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である「教会の宣教およびその一つの補助的機能〔教会的な補助的奉仕〕としての神学における思惟と語りの前提である」。何故ならば、教会の宣教およびその「一つの補助的機能」としての神学は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)の関係と構造(秩序性)に連帯し連続した「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っているということであり、われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果は、根本的には……真理が来るということのしるしである」からである。したがって、「どんな省察も、この前提を基礎づけようとしてはならないのである、この前提に疑いをはさんではならないのである。すべての省察は、この前提から出発し、この前提に戻っていくことしかできない」。何故ならば、「この洞察からして、キリストの神性〔「キリストの永遠のまことの神性」〕についての教会の<客観的な>教義は生じた」からである。 

 

 さて、バルトは、「カルヴァンのキリストの神性の認識」について、次のように述べている――「カルヴァンのキリストの神性のまことの認識は、すべての信頼とすべての希望をキリストの上におき、キリストの名を呼び求めていることから成り立っている」、と。しかし、それに対して、「ルターのキリストの神性の認識については問題がある」。すなわち、それは、ルターにとって「神ヲ認識スル唯一カツ単独ナ方法は、神ニツイテ正シイ仕方デ認識シタリ、考察シタイト望ム者ハ誰デモ、キリストノ人間性ヲ別ニシテ、ホカノスベテノコトハ徹底シテ後ニスベキデアルから、神ヲ認識シタイト思ウ者ハ、地ニ印サレタ<スカラ>schala)ヲ見ツメルベキデアル。人間の〔生来的な自然的な〕全理性ハココニ似ツカワシイ」という思惟と語りにあった。ルターは、「聖書の中に証しされているキリストの人間的現実……、彼のよきみ業、神の啓示の認識の道……キリストの恵みの認識の道を通して認識されることを欲しているのであるが、彼のその認識の道は、まず第一に下から上へ、キリストノ人間性カラ神ノ認識へと向かうものである」、換言すればルターの思惟と語りは、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格を<目的格的>属格(「イエス・キリスト<を>信じる信仰」)として理解した思惟と語りのように、「『自然』神学」の段階における思惟と語りである――ここに、「ルターのキリストの神性の認識」についての問題がある」。バルトは、その「ルターのキリストの神性の認識」に対して、『カール・バルト著作集4』「ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ」で、次のような根本的包括的な原理的な批判を行っている――「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を揚棄したところの、あるいは認識し自覚しないところの、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された人間的自然(人間の観念的生産物)としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」は、「……独立的に現われ活動する神的実体として(中略)〔それには、〕あらゆることが可能であり、(中略)〔またそれは、〕人を義とする……、……〔恣意的独断的な「わがまま勝手な」〕愛と善き業を生み出す…、〔恣意的独断的に「わがまま勝手に」〕罪や死にも打ち勝ち、人を救う。〔その〕信仰と神とは『一団』をなし、信仰は(心の信頼として!)神と偽神の両方を作り、ときには(ただ「われわれ自身の内部において」だけであるが)『神性の創造者』と呼ばれるということもあり得る。さらに重要なのは、……受肉説とそれに関連した事柄である。フォイエルバッハは、このキリスト教の教説を『神は人となり、人は神となる』という定式で簡明に表現し〔たが、それは、〕……とくにルター的なキリスト論および聖餐論を前提とする場合には、まったく不可能とか無意味とかいうことはできない。〔すなわち、〕……、神性を天上に求めず地上に求め人間の中に――人間イエスの中に求めることを教え、またかれにとっては聖餐式のパンは高く挙げられたイエスの栄光化されたからだであらねばならなかった。(中略)これらすべてのことは、……、……天と地、神と人間を顚倒する可能性を意味しており〔すなわち、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を揚棄することを、あるいはそのことを認識し自覚していないことを意味しており〕、終末論的限界を忘れる可能性を意味している。(中略)ルターと初期ルター派の人々が、天を襲うようなキリスト論を説いて、その後継者たちを、たえず出現する思弁的、人間学的帰結に対しての一種の危険状態、無防備状態の中に置き去りにしたことは疑いない。神に対する関係があらゆる点で、原理的に顚倒不可能な関係だということ――そのことについて〔すなわち、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>について〕、人々は、フォイエルバッハ〔の客観的な正当性と妥当性とをもった根本的包括的な原理的なキリスト教批判(宗教批判)〕を有効に防御するためには確信を持っていなければならない……」、「……神と人間を同一視する神学(中略)『人間の中なる神について』の議論が根絶されない限り、フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない」、「市民的啓蒙という観念、(中略)……社会民主主義の<無神性>は、教会にとって、(中略)現在でも警告であって、(中略)教会がフォイエルバッハの問いの前に晏如となることができるのは、教会の倫理が古いまた新しい実体やイデオロギーに対する崇拝から根本的に分かたれるときである〔すなわち、純粋な教えとしてのキリストにあっての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題<と>、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請) が古いまた新しい実体やイデオロギーに対する崇拝から根本的に分かたれるときである〕。そのときにこそ人々は、教会の告げる神も幻想ではないのだという教会の言葉を信ずるであろう。そのときまでは、そのようなことを決して信じはしないのである」。また、このルターは、「キリストガソノヨウニ卑賤ナ姿ニオイテ認識サレルノト同様ニ、キリストガ神デアルコトニモ到達シ、明ラカニサレルノデアル。ソシテソノ時、神が惜シミナク、憐レミ深ク見下ロシ給ウテイルコトガ認識サレルノデアル。したがって、まさしく神の憐れみの認識こそ、結局、再び、道が上から下に通じている」と思惟し語るのである――「コノ唯一ノ主、王、創造者ハ御子ヲ通シテ、コノヨウナ仕方デ御自身ヲアラワサレタ」。ルターの場合、「義認と啓示の神学が問題であった」。ルターは、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、一方で、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストに「燃えるような強烈な意志を示した」が、他方では、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「根源」(起源)としての「父が、自分を自分から区別した子としての神」、「父を根源」としている神の子、「キリストの神性の認識に対しては燃えるような強烈な意志を示さなかった」。したがって、ルターの思惟と語りは、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教の信仰、神学、教会の宣教(包括的に言えば、「『自然』神学」、「自然的な」信仰、神学、教会の宣教)の萌芽となった。また、「A・リッチュルのキリスト論は、疑いもなく『仮現論的な』型に属している。何故ならば、リッチュルは、キリストを通しての神の啓示の完全さについての正しい評価は、〔キリストの神性の<主辞>の中で保証されるとするべきであるにも拘らず、〕キリストの神性の<賓辞>の中で保証されるとするからである」。 

 

ニカイア・コンスタンティノポリス信条 

 この信条は「啓示ないし和解の実在」そのものである起源的な第一の形態の神の言葉、すなわちイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」である第二の形態の神の言葉(聖書)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の客観的な信仰告白の文書でありキリストの神性についての教義の最も重要な文書である」。この「信条は、325年のニカイア会議の決定的な三位一体神学の結論を採用しており、565年以来、東方における、1014年以来は、西方における、礼拝式文の確定的な構成要素となった」ものである。 

 

)「われわれは唯一の主イエスキリストを信ず――この「唯一の主とは、概念の最後的・究極的意味において、主、主権であることである。それは、それ自身の中に基づいた主であることである〔すなわち、子としてのイエス・キリストは、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」そのものであるということである〕」。この条項――すなわち、「イエス・キリストは主なりという信仰命題」は、「自分自身の中に基礎づけられて、……イエス・キリストは、われわれにとってそれを意味することが<できる>ところのものであるということである」、換言すれば「われわれに対して、権威と力の保持者であり、要求権を持っており、われわれを自由に支配する力を持っているところのものである」ということである。「イエス・キリストは主なりという信仰命題」は、「イエス・キリストは、概念の最後的・究極的意味において、〔先にも述べたように、〕父を根源としている神の子であり、その自分自身の中に基礎づけられて、完全に自由な唯一のもろもろの主、主権である」ということである。この「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「根源」(起源)としての「父が、子として自分を自分から区別した」その「区別された子」としての「イエス・キリストの存在が、イエス・キリストを直接に唯一の神である父の場所へと移すのである」。イエスキリストは神であるというキリストの神性についての命題「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストは、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「根源」(起源)としての「彼の父を啓示する、父を啓示するものは神を啓示するということを意味している」。このイエス・キリストは、その「啓示の中で、主として、永遠の真理および客観的な啓示の実在自体として、降下突入してくる」 

 

()われわれは光よりの光神よりのまことの神造られずして生まれたものとしてのイエスキリストを信ず――第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・標準とする第三の形態の神の言葉である「この教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)は、キリストの神性についての三位一体神学の本来的にして決定的な規定である」。すなわち、先にも述べたように、「キリストは、神の被造物ではなく、神から生まれた方である」、換言すればイエス・キリストは、「自己自身である」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」(起源)としての「父が、子として自分を自分から区別した」その「区別された子」として、すなわち「神の子として神自身である」。したがって、われわれは、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)であるイエス・キリストにおける「神の行為としての啓示の中で……直接にまた神の本質をも認識しなければならない」。すなわち、直接にまた、神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける神の行為としての啓示の中で、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」のその内在的本質をも認識しなければならない。言い換えれば、イエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現は、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの名」、すなわち「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な第二の存在の仕方において、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」のその内在的本質の認識と信仰(啓示認識、啓示信仰)を要求する啓示である。「われわれはなるほど、この区別〔外在的本質としての「失われない差異性」〕と単一性〔すなわち、内在的本質としての「失われない単一性」〕を言い表そうとこころみることができるし、またこころみなければならない」。「神の言葉の認識は、ただ信仰の中での、神の言葉の認識である得るだけであり」、換言すればそれは神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」、すなわち「啓示と信仰の出来事」に基づいた「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識(啓示認識)」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」であり得るだけであり、「神の言葉の認識であるうるだけであり」、それ故に「決定的に、この対象を通してわれわれに向けられた問いに対する承認〔受認〕、人間的な応答でだけあり得るだけである」。したがって、第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な「教義を、いや、〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である〕聖書の表現を、そのまま後に続いて熟考し、言葉に表現するとしても……ただ、神の恵みを通してだけ〔すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいてだけ〕、自分のものとなり得る」。したがってまた、「われわれの思惟と語りそれ自体は、この対象に対し適当なものであることはできず、ただ不適当ものであり得るだけであろう」。したがってまた、バルトは、次のように述べている――第三の形態の神の言葉である教会の宣教および神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であってわれわれ人間の決定事項ではないのである。したがって、それは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度〔すなわち「祈りの態度」〕に対し神が応じて下さる〔すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「祈りの聞き届け」〕ということに基づいて成立している」、と。 

 

光よりの光――具体的にそこで言おうとされていることは、おそらく先ず第一に、教父たちによって特に好んで用いられた、太陽および太陽光線という比喩である」「光源である太陽」――すなわち、それは、「父は、自分自身以外の何ものからでもない」ところの、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「根源」(起源)であるから「父の比喩であり、その太陽光線」は、「三位一体の神」の「根源」(起源)としての「父が自分を自分から区別した父を根源とする子、子としてのイエス・キリスト自身の比喩である」。しかし、バルトは、次のように述べている―「厳密にとるならば」、第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な「信仰告白の比喩の言い方は、イエス・キリストについての記述として、依然として不適当であり続け、対象は明らかに〔第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白の〕言葉の彼岸〔すなわち、外〕にあり続ける」、と。何故ならば、イエス・キリストは、「三位一体の神」の「根源」(起源)である父と同じく「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」であるからである。したがって、バルトは、この第三の形態の神の言葉である「教会の<客観的な>信仰告白」は、「この比喩の言い方でもって」、「存在の類比」に依拠して(包括的に言えば、「『自然』神学」の段階における思惟と語りにおいて)、「造られた世界の中での三位一体ノ跡を、……指し示そうとしているのではない」と述べている。すなわち、この第三の形態の神の言葉である「教会の<客観的な>信仰告白」は、アウグスティヌスが述べているような、「存在するものそのもの、その純然たる造られた存在に依拠した造ラレタモノヲトオシテ〔すなわち、「存在の類比に依拠して」〕、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という思惟と語りではない。 

 

造られずして生まれとは「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)であるイエス・キリストは神性を内在的本質とするということを、神から由来するということを意味している」。このような訳で、「和解主としてのイエス・キリストは、神ご自身であるが故に、イエス・キリストのその人間的『性質』、人間であること、神との和解者としてわれわれに出会うところの人間であることは、啓示および和解として現実に有効なのである」。イエスキリストはまことの神にしてまことの人間であるという新約聖書的――キリスト論的命題はひっくり返すことのできないひとつの等置である〔すなわち、その主辞としての内在的本質と賓辞としての外在的本質とをひっくり返すことができないひとつの等置である〕」。 

 

まことの神よりのまことの神――「まことの神に基づき、まことの神から出ているまことの神が、イエス・キリストである」。「マコトノ神とマコトノ神は、独立的な本質として相対して立っているのではなく、それらは同じ一つの独立的な本質の中で二様である」。すなわち、それらは、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「三位相互<内在性>」における「三位一体の神」として、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質する中で二様である。言い換えれば、イエス・キリストは、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」(起源)としての「父が、子として自分を自分から区別した」ところの「父を根源とする子」として、二様である。何故ならば、「三位一体の神」の「根源」(起源)としての「父が、自分を自分から区別した」ところの「父を根源とする子」という概念を疎外しないならば、概念的に矛盾してしまうことになるから、ここでは疎外は疎外の止揚である。まさに「三位一体の神」の「根源」(起源)としての「子として自分を自分から区別した父」も、それ故にその「区別された子」も、自己還帰する対自的であって対他的な、完全に自由な、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「三位一体の神」として、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする神である。 

 

 それからまたこの神は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、「キリスト教に固有な類と歴史性」、「聖礼典的な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>において、「われわれのために存在される方である」。バルトは、この「三度別様の中での三つの存在の仕方」を、「他との関係なしにそれ自身で存在している近代的な個体概念と区別させるために、人格の名で呼ぶことを避けて、存在の仕方あるいは存在の様態と呼んだ」。 

 

決定的な定式は、『造られずして生まれという第三の定式である」。イエス・キリストは、「神の代官や神を表しているものや神の被造物ではなく、神の存在の仕方として〔すなわち、「われわれのための神」としてのその「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の第二の存在の仕方として〕、(中略)〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「根源」(起源)である父としての〕神から由来するところの神自身である」。「啓示〔啓示者であり言葉の語り手である父の啓示、父の言葉〕、また和解者となるべく人間となられた方であるイエス・キリスト」は、「造られたのではない」から、この「啓示と和解は、創造の内部での一つの出来事〔啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕であり、またここで人間となられた方であるイエス・キリスト」は、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「神であるが故に、〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての〕彼の人間であることは、啓示および和解として現実に有効なのである」。「キリストの永遠のまことの神性」は、「啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識することができる」。すなわち、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)における「啓示と和解が、キリストの神性の根拠ではなくて、〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質である「三位一体の神」としての〕キリストの永遠のまことの神性が、啓示と和解を生じさせるのである」 

 

イエスキリストは主なりという信仰命題、「イエスキリストがまずすべてのわれわれの把握に先行しつつ自分自身においてそのようなものとしてわれわれに把握すべくご自身を与えるということであるちょうど、常に「先行する神の用意」に包摂された「後続する人間の用意」ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解〔神の側の真実としてのみある、神の側からする人間との架橋〕であり、神との間の平和(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である」「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識〔信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事〕に向かっての人間の用意が存在する」。この信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事は、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」に基づいて初めて、終末論的限界の下で贈り与えられる。すなわち、「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」。言い換えれば、イエス・キリストにおける神の自己啓示自身が、「啓示に固有な自己証明能力」を持っている(『教会教義学 神の言葉』)、先にも述べたように客観的な「存在的な<必然性>」と主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とする客観的な「存在的な<ラチオ性>」と主観的な「認識的な<ラチオ性>」という「総体的構造」を持っている(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』) 

 

)「われわれは神のひとり子としてのイエスキリストを信じる」。一方で、この「ひとり子の条項」は、イエス・キリストにおける「まことの啓示ないし和解はただ一つであること、すなわちその排他独占性、独一無比性を意味している」他方で、この「ひとり子」は、と同じように、「本来生まれつき、すべての啓示以前に、すべての信仰以前に、神である方であるということを意味している」。すなわち、この「ひとり子」は、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」(起源)としての「父が、子として自分を自分から区別したところの神の子として神ご自身であるということを意味している」。 

 

)「われわれは、<よろず世のさきに父より生まれたるもの)>としてのイエスキリストを信ず」。「この条項は、イエス・キリストは、神を表しているのではなく、神自身であるということの言表である。すなわち、この条項は、イエス・キリストは、「自己自身である神」(ご自身の中での神)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」自身であるということの言表である。詳しく言えば、イエス・キリストは、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」(起源)としての「父が、子として自分を自分から区別したところの、その区別された神の子として神ご自身であるということを意味している」。したがって、このイエス・キリストは、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方、すなわち「われわれのために存在される神の子」、それ故に「啓示〔啓示者であり言葉の語り手である父なる神の子の啓示、神の子の言葉〕および和解者として、先在される方である」。「しかも、このイエス・キリストだけが、すなわち先在される神の子だけが、われわれのために存在される方である」。したがって、この啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事は、一方で、「われわれの時間の中での、造られた世界の内部における、出来事である」が、他方で、その「彼岸」()にあるところの「神自身においてのみ実在である始メナク、終リナク、常ニ存在スル永遠的実在における出来事である」。「われわれの歴史〔人間の類の時間性、人類史、世界史〕の主としての神であるイエス・キリスト」は、「永遠からこの方、永遠なる父の永遠なる子として、神の子である」。「時間の主の時間であるイエス・キリストにおける啓示の時間とわれわれの歴史〔人間の類の時間性、人類史、世界史〕、われわれの時代の時、罪深い被造物の時と歴史」は、「神的な『よろず世のさきに』の中に含み入れられていることは、神の恵みであり、秘義であり、神へのおそれをもって認識されるべき基礎である」。 

 

 さて、イエスキリストは神とは異なる被造物世界の内部におけるすべての生き物のように生まれる」。すなわち、「マリアからナザレのイエスという人間の歴史的形態としてのイエスキリストの>」をもって生れるしかし、「神的な創造者の言葉に基づいて神的な創造者の言葉の前提のもとで生まれる」。すなわち、「創造と罪が互いに一緒にありつつ互いに相対立している過程の中で人間が生まれるように生まれるこの第三の形態の神の言葉である「教会の<客観的な>信仰告白の比喩も不適当であり、この言表でキリストにあっての神が把握できてしまう訳ではない」。何故ならば、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「根源」(起源)としての「父は、子を、彼だけが知っているような仕方で〔それ故に、神とは異なる神の被造物そのものであるわれわれ人間には全く知られないような仕方で〕生む」のであるから、その出来事は、われわれ人間にとっては、「言葉ニ言イ表ワシ得ナイモノデアル」からである。したがって「無知ヲ告白スルコトヲ恥ジルコトハナイ。ナゼナラバ、アナタハ御使イタチト共ニ無知ダカラデアル」。第二の形態の神言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての「神の中にこそ、父と子の関係は、すべての被造物的関係がそうであるように、その起源的な本来的な実在をもっている」。出生の秘義は起源的に本来的に、被造物世界の秘義ではなく、(一つの)神的な秘義いやそれこそ〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在し>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の〕神的な秘義である」。 

 

 生む生まれるという父と子の比喩は造られた世界の中でひとりの父の人格とひとりの子の人格の間に成り立っているような相違性と連続性とが、……成り立っているということである」。すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「根源」(起源)としての「父は、子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源である」、それ故に「その区別された子は、父が根源である」、また「神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は、父と子が根源である」――この神の中で神から生じることこの傑出さの中に造られずして生まれの意味内容がある「父、子、霊〔聖霊〕の働きの単一性〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「単一性」〕は、……三つの存在の仕方の交わりとして理解されるべきである〔すなわち、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」・「和解者」としての子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>の交わりとして理解されるべきである〕」。このような訳でこれらの出来事は先ず以て神の中での出来事としてあるしたがって、われわれは、自分自身について語る言葉〔すなわち、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉〕に、ただ奉仕すべきである」。詳しく言えば、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての「神自身が、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>において、「自分自身について語る言葉〔すなわち、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉〕に、ただ奉仕すべきである」。「そしてそれから、われわれはこう言うべきである。わたしたちは無益な僕です。わたしたちはただなすべきように、この比喩の中で考え、語っただけです。しかもわたしたちは、そこで考え、語ったことに対して、何ら『正当性』(正しさ)を要求したり、主張することはできません、と。〔何故ならば、〕『正当性』は、ただひたすらわれわれがその方について考え語った方にのみ属しており、われわれが考え語ったことに属してはいない〔からである〕」。「われわれはただ不真実の中で、真実について語り得るだけである。われわれが神を父および子と呼ぶ時、われわれは語っているところのことを知らない」。何故ならば、「われわれが神を父および子と呼ぶ時、われわれが表現している真理はわれわれにとっては隠され、探求され得ない真理である」からである。われわれは、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「神の不把握性の下にある」。しかし、われわれが、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方、すなわち啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度としての「自立的服従」との全体性において、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、「神をそのように呼ぶ時に、われわれはあくまで真理を、神の真理を表現しているのである」。 

 

 バルトはまた、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条に、欠けている一つの比喩的表現を補う必要がある」ということを述べている。それは、「新約聖書や教会の言葉におけるイエス・キリストは神の<言葉>である、という比喩である」。詳しく言えば、すなわち、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書およびその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo) におけるイエス・キリストは、神の<言葉>である、という比喩である」。われわれが、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である「イエス・キリストの行為〔すなわち、業・働き〕を内容的に和解として理解する時、それは神性を内在的な本質とする神の子を指し示しているように、そのイエス・キリストの外在的な行為〔すなわち、業・働き〕を形式的に啓示として理解する時、それは神の言葉〔すなわち、起源的な第一の形態の神の言葉〕を指し示している」。「キリストノ恵ミは、神自身においてのみ実在であり真理である」、それは「真理性と実在性である」から、それは、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての「神自身の……ものである」。したがって、われわれは、次のように思惟し語らなければならない――ニカイアコンスタンティノポリス信条「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「根源」(起源)としての父が子として自分を自分から区別した父を根源とする子として神、神の子について語る時」、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)としての神の言葉との全体性において理解されることを欲していた」、。啓示者であり言葉の語り手である父の「<言葉>〔すなわち、啓示であり語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)である子の言葉〕ひとりの主であるこの言葉父によってすべての時の前に語られたこの言葉は光よりの光まことの神よりのまことの神であるこの言葉は造られずして神によって語られたしたがって、(中略)イエスキリストは永遠からして語り給う方の永遠の言葉である永遠からして考え給う父の永遠の思惟である神がご自身を考えるないしは自分自身のもとで自分自身を表現する言葉である」。したがって、「またここでも、(中略)この言い方も、この概念も、一つの不適切な言い方であり、概念である、と告白しなければならない」。何故ならば、「われわれは、イエス・キリストを神の永遠の言葉と呼ぶ時、そもそも何を言っているのか知らない」からである、また「われわれはいかなるまことの言葉を知らない」からである。何故ならば、それが人間論的な自然的人間であれ教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「神の不把握性の下にある」からである。したがって、われわれは、次のように思惟し語らなければならない――「まことの言葉はわれわれにとって、……ただ厳格に排他的に神の中に隠された永遠の言葉イエスキリスト自身である」。「われわれがイエス・キリストを神の言葉と呼ぶ時、それが真理となるように、……啓示を、そして信仰を、必要としている」。すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」)とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」(すなわち、主観的な「認識的な<必然性>」)、すなわち神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」を必要としている。「永遠の言葉の受肉〔それ故に、その内在的本質における神性の受肉ではなく、その外在的本質である第二の存在の仕方における言葉の受肉〕と聖霊の注ぎという、……恵みの出来事〔すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」〕を必要としている」。このような訳で、「いかなる存在ノ類比もないのであって、あるのは信仰ノ類比だけである」「われわれは、〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による〕啓示と信仰の出来事を念頭において、いつもわれわれの人間的不真実の中で、神的真理を語る……ことが赦されるであろう」 

 

)「われわれは父と同質である』(父と一つの本質であるとしてイエスキリストを信じる」。バルトは、すでに見てきたように、「アタナシウスの同一性、アウグスティヌスの西方的解釈に立脚して、一つの本質、同一の本質の解釈を採用する何故ならば、それは、第一には、アリウス主義の『下からの半神』、『超人』」としてのキリスト論に抗することができるからである。また、『造られずして生まれ』を強調し、鋭くするからである。また、イエス・キリストを創造主の側におくからである」。第二には、「オリゲネス以来……の見解、すなわち神性の内部の段階論におけるキリスト論、また上からの半神としてのキリスト論に抗することができるからである。また、『まことの神』を強調し、鋭くするからである。また、エビオン主義的キリスト論や仮現論的キリスト論に対する戦線を形造っているからである」。第三には、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」という啓示理解において、「三神、三つの対象、三つの神的自我という多神教理解に抗することができるからである」。「わたしと父とは一つである」。しかし、この時、先にも述べたように、「ただわたしと父という区別の中でだけ『一つ』が有効である」。すなわち、「子」は、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」(起源)としての「父が、自分を自分から区別した子、それ故にその区別された子としての神、神の子である。ただこの一つであるということの中でだけ、わたしと父とが存在する」。この時には、「様態論に抗することができる、と同時に、人が同質という概念を、すなわち、『父と同質である』という概念を、イエス・キリストは〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」(起源)としての〕父と一つの本質であるという概念を、(中略)アタナシウスやアウグスティヌスと共に本質〔内在的本質〕の同一性として、しかしまた新ニカイア派の者たちの関心もとりあげつつ、ひとつの本質の二つの区別された同様の存在の仕方について語らせる時〔すなわち、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」、起源的な第一の存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、啓示者・言葉の語り手・創造者としての父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)であるイエス・キリストの父と第二の存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である子としてのイエス・キリスト自身という「二つの区別された存在の仕方」について語らせる時〕、……その概念は、人が〔人間学としての学業的な〕哲学において『空虚な概念』として表示するのを常としている如き種類の概念となるのであるが、そうした哲学にも抗することができる」。「哲学者たちと哲学づいた神学者たち〔すなわち、「混合神学」者、「人間学的神学」者、「哲学的神学」者、包括的に言えば「『自然』神学」者たち〕は以前からホモウシアの概念を使って、軽はずみな遊戯をしてきた」。したがって、「被造物は、自主独立的に、自分勝手にではなく、〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神の啓示〔「神の特別啓示〕を通して信仰の中で〔すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)の中で〕神を認識しなければならない」。このように、「われわれのキリストの神性についてのわれわれの考察のすべての線は、イエス・キリストは父と同質である、という教義を正しいとしなければならない点にわれわれを導いた」。したがって、「ルターは、子としてのキリストは父と共に唯一のまことの神であり、すべてのことにおいて父と等しく、キリストは父からであり、父が彼からではない」、「……キリストは固有な、本来的な、神でなければならない」、と思惟し語った。「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の<起源>・<根源>としての「父は、子として自分を自分から区別するし、自己啓示する神として自分自身が根源である」し、その「区別された子は、父が根源である」し、「神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は、父と子が根源である」。「聖霊において、父と子は、神的愛に基づく完全な交わりにおいてある」。すなわち、「聖霊は、その交わりの中で、父は子の父、言葉の語り手であり、子は父の子、語り手の言葉であるところの行為である」から、「神的本質のこの単一性の中で子は父から、霊は父と子からであり、他方、父は自分自身以外の何ものからでもない」 

 

)「われわれはすべてのものが造られた方としてのイエスキリストを信じる」。この命題の内容は……厳格に三位一体神学的に理解されるべきであり、……それは次のことを意味している。三位一体ノ外ニ向カッテノ働キハ分ケラレナイ」。すなわち、聖書の中で証しされているキリストにあっての神は、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」である、それから「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)である――この<全体性>において理解されるべきである「子の中で、子とともに父もまた、啓示と和解の中に現臨しつつ行動する限り……父もまたこの啓示と和解の出来事の主体である、子としてのイエス・キリストは父と等しく、永遠からしてまことの神である。創造とは、〔神とは異なる〕すべての被造物性の上方および彼岸〔換言すれば、外〕での、その根源性の中での神性のことである」――これがニカイアコンスタンティノポリス信条におけるすべてのものはその方によりてで言おうとしていることである。「その方によりて信条は、その根源性、すなわち父は自分自身以外の何ものからでもないその根源性と二様性において、子を全く父と区別する」また、「すべてのものは「信条は、全く子を父と密接に結びつける」ここには、「創造主の力をもつ啓示〔啓示者であり言葉の語り手である父の言葉、啓示〕としてのイエス・キリストの一つの実在がある」 

 

 このすべてのものは主によって造られたという思想「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>において理解されなければならない。「彼は自分のところに来た(ヨハネ111)」。この「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)である「イエス・キリスト〔すなわち、啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、換言すれば「啓示ないし和解の実在」そのものであるイエス・キリスト〕を通して、義とされ、聖化されたわれわれは存在する」。しかも、この第二の存在の仕方であるイエス・キリストは、その内在的本質においては、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」として「われわれの存在の彼方〔すなわち、外〕、われわれの存在を越えたところにある〔すなわち、われわれの存在の「彼岸、外にある」〕われわれの存在の基礎である」。したがって、「われわれがその言葉を聞こうと聞くまいと、われわれがその言葉に従順であろう不従順であろうと、われわれの存在は現実なのである」したがってまた、「われわれが彼に対して責任を負おうと欲するかどうかなどということは、問題ではない」。何故ならば、「その言葉は、力と権利をもつ王の支配の行為であり、力をもつ……主の言葉であり、また〔その内在的本質からして〕創造者でもある和解者の言葉であるからである」。「われわれは、われわれに裁きと恵みを告げるそのまさしく同じ言葉を通して生成したわれわれの人間存在以外の人間存在について何も知らない。その言葉がわれわれの人間存在の基礎である」。 

 

 新約聖書によればイエスキリストは類語反復において彼は主であるが故に主である」。このことは次のことを意味する――すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストは、その内在的本質において「創造主なる神であることによって、同時に、彼ら〔新約聖書の人間たち〕にとって和解主なる神である。彼の裁きと彼の恵みは、彼が、彼らの現実存在にかかわることによって、同時に、彼らにかかわる。彼は、彼の裁きと彼の恵みとをもって〔すなわち、この「裁き」と「恵み」の<全体性>をもって〕、彼らにかかわることによって、同時に、彼らの現実存在にかかわる。彼らがイエス・キリストを通して、彼らの和解について知ることによって、同時に、彼らは、自分自身を、彼らの存在を、彼らが造られたものであることを、創造主を、知る」、ということを意味する

(文責:豊田忠義)